90年代

 


菊池正昭(1990年主将 1988年入学) 

 

<初優勝直後で昭和最後の入学生>

 同期のメンバーは、野口周一、八尾浩樹、阿部伸一、伊藤正敏、岩本如貴、太田敏之、東澤義人、永松大、松田昌大、山本格と私(菊池)の合計11名。

 昭和63年の入学時、「インカレ初優勝!日本一」と書かれた手書きのポスターが教養部の目立たないところにさりげなく張られていた。それにつられてかは分からないが、ニュースポーツとされていたオリエンテーリング部の活動場所、学習室8番に我々は通うことになる。前年の群馬インカレの優勝で、全国的にも注目にさらされ、競技路線を突っ走るべきと、ぎこちなくもがむしゃらにやっていた時期ではなかっただろうかと思う。ちなみに、私らの1年時冬のスキー合宿中に昭和天皇が崩御され、我々のデビューの第11回の奈良インカレは元号が平成と改まった初のインカレになる。

 

<1・2年のとき>

 私自身は、入部の動機が「仲間づくり」と「ただ走りたい」だけだったので、オリエンテーリングに時間や労力・資金を注ぎ込もうとは思っていなかった(深夜マラソンに入賞して満足するぐらい)のだが、真剣に競技に臨み、語り、議論し、鍛錬する先輩達を見てのめり込むようになっていってしまった。なお、私は部で初の学友会体育部常任委員になった(後に、常任委員か部かで悩みましたが)。1年の秋からはほとんどの大会に出場したと思う。30人ほどのクラブ一丸となり向かった1年の時の奈良インカレ。新人クラスは先輩の指導のおかげで優勝できた。10位となった団体戦は応援の立場であったが、自分も代表とともに走り競っているような気分と興奮を味わったのは間違いない。言い聞かされていたインカレ優勝、自分らは経験していない日本一を目指すと胸に刻むことになる。

 2年のときには、筑波との対抗戦が始まりました。この対抗戦はその後スタイルを変えつつも現在まで引き継がれているよう。他大学との交流が広がり始めた時期でしょうか。埼玉インカレ、個人戦でまぐれながらも6位入賞、団体戦は「トレーニングの勝利」といわれた堂々の2回目の優勝。全国で最も鍛えている集団であるべきと思っていた。

 

<3年 主将の時>

 まずは大会運営。第12回東北大大会は鹿島台町「鴻の巣林道」。実行委員長八尾。比較的遠隔地ということで、地図調で原付を痛めた者も少なくなかった。東北本線沿いということ、テレインもまずまず白いところもあり、初のエリートクラスの設定もあり、参加者が初めて200人を突破した大会だったのではと記憶している。当日は豪雨で大変でしたが、みんなで乗り切り成功に終わらせた充実感は今でも忘れない。

 主将として仕事の方は、申し訳なく、主将らしいことはできなかったような気がする。いろいろなことは考え、導入したことはあったのだが、あまりよい結果を導けなかったのではと反省しています。主務(野口)任せ、部局任せも多かったのでは。私自身の競技力を上げて、皆を引き上げようとしたのみだったのではないでしょうか。岐阜インカレはそれが反映してか、極寒雪の個人戦は大敗(しかもテレイン内に眼鏡を落とす)、団体戦は屈辱の16位。「何かが違う、何かが足りない」と自問自答しながら団体戦のテレインを走っていた。表彰式で某大学のある選手が述べた「東北大は・・・・」といったコメントに怒り、悔やしみ、唇をかみしめ、雪辱を胸に誓った場面は忘れられない。(ちなみに、後輩らのおかげでその翌年から連続入賞記録が続いている。感謝)

 

<4年のとき>

 私の次の主将、小山博史君は間違いなく歴史に残すべき名主将です。彼は、数々の改革を断行しました(細かくは挙げません。反発も多かったが)。この年の種まきで東北大は飛躍的な実力向上を見せていきます。4年生になると部会ではあまり発言しないのが普通でしたが、内容によっては私はよく、小山執行部と対峙しました。自分の時と同じ失敗をしたくないという考えがあったからです。とくに、インカレ代表選考については3ヶ月持ち越しで議論することになりました。対立はしましたが目指すものは同じと確信持てるまで議論したと思います(結果としてこのような激論の積み重ねが部のまとまり、意思統一を育む一助になったのではないでしょうか)。代表への立候補制が導入され、学習室8番での部会において立候補の名乗りが約10名出たあの瞬間、涙が出そうになりました。

 4年最後の日光インカレ。個人戦は自身の入賞もよかったのだが、同期の山本、伊藤の両君が選手権クラスに出場してくれたことが嬉しかった。団体戦は悔いのないレースをすることが目標。結果は付いてくると信じ臨み、会心のレース、コースベストラップ!前年の汚名返上2位入賞!・・・。アンカーでみんなの前に現れたときに笑顔の拍手で迎えられると思いきや、みんな必死の形相だった。全員がレーンに体を乗り出して叫んでいたあのシーン忘れられない。あとから、優勝した東大と秒差だったということが分かり、しだいに悔しさが滲み出てくることになった(数年前まで夢にも出てきたほど、最近はなくなった)。ただ、悔しさは後輩達が晴らしてくれると信じ、現役部員時代に終止符を打つ。

 

<まとまらないまとめ>

 東北大OLCで過ごした4年間は私にとって、かけがえのない宝物となっています。のめり込みすぎず、もう少し学業に専念すればなあと思ってしまうこともあるのですが、やはり、捨てきれない貴重な体験だったと思います。同期のみんなにもとても感謝しています。機会を無理矢理にでも作って昔のことなどを含め、人生の道迷いについて話したいです。みんなよろしく。

 それから、言い出しっぺや担がれても満足に仕事をしなかったこと(ショートインカレなど本当にいろいろ・・・高島、秀樹、他のみんなに感謝)のツケが現在回ってきていて、宮城県OL協会の事務局をやるはめになっているのだなあと思っています。遠くの皆さん、それなりに菊池は東北大やMGのサポートをする(つもりです)ので、ご協力よろしく! 

 


小山博史(1991年主将 1989年入学) 

 

[人生の糧としてのオリエンテーリング]

オリエンテーリングの醍醐味は、自分でルートを決め、そのルート上を通過するときに見えるはずの風景をイメージしながら実際の風景と重ね合わせ、チェックポイントを通過してゴールを目指すことにあるだろう。ルートを決めるにあたっては、距離によるコストはもちろんのこと、その時点での技術力、体力、リスクなどを総合的に判断して、いくつか浮かんだルート候補の中から最善と思われるものを選択する。この課程が面白いのだ。それだけではなく、ベストルートを選択したものが勝てるとは限らず、現地でいかにクレバーに立ち振る舞うことができるのかが大きく影響する点も見逃せない。ライバルにポスト位置を知らせてはいけないし、高速パックを先導するべきか、パックさせずに振り落とすべきか、状況に応じて迅速に決断をしつつ、競技にも専念しなければならない。思い返してみると、複雑な要素が絡み合った非常に面白いスポーツだ。のめりこんでも不思議ではない。しかし、自分がオリエンテーリングをしていた一番の理由はスポーツ自体の楽しさよりも、大袈裟だがオリエンテーリングをしていた時は生きていることを実感できたからではないかと思う。この時に、アイデンティティの確立ができたことは自分自身の人生において大きな意味があった。


現在は現役を引退して、情報技術の世界に腰を据えて様々な活動をしている。ここでは、現役時代のことを振り返る代わりに、オリエンテーリングの技術に通ずる情報技術の話をする。ソフトウェア開発の世界ではウォータフォール式開発手法という有名な方法があり、そこではまことしやかに「設計を完璧にしてから、設計通りにコードを実装する」ということが言われていた。これはオリエンテーリング用に言い換えると、「ゴールまでのルートを完全に決めてから、その通りのルートでゴールする」ということだ。そんな方法で走っているオリエンティアはいないだろう。各レッグごとに分けてルートプランニングをし、リロケーションをしながらゴールを目指すはずだ。驚くべき事に、ウォータフォー
ル式開発手法にはリロケーション技術に相当するものがない。10年前にはまだウォータフォール式開発手法が主流であったことを考えると、オリエンテーリングの技術の方がよく研究されていたといえる。さすがに近年では、ウォータフォール式開発手法の問題点とそれに対する解決策が議論され、いくつかの新しい開発手法が提案されている。そのうちのひとつにXP(Extreme Programming)という開発手法がある。XPはそれぞれが互いに影響する4つの項目、コスト、品質、スコープ、時間に着目し、コストと品質をスコープと時間によってコントロールしようという視点から提案されている。オリエンテーリング用に言い換えるなら、コストは「ゴールまでかかる距離と時間」であり、品質は「どれだけ速いルートを通るか」である。コストに時間が入ってくるのを疑問に思う人もいるかもしれ
ないが、前述した4つのパラメータは互いに影響するものなので問題ない。スコープというのは対象とする範囲のことである。例えば、ルートプランニングにおいて対象を「コース全体」にするのか「コース前半」にするのか「1番コントロール」にするのか、ということだ。時間はそのまま時間でいいだろう。XPでは、最初に全部やるのではなく、重要なところにスコープを絞ってから始めて、途中で何度も見直しをかけながら、開発を進めていく。オリエンテーリングでは、「コントロールを順番にチェックする」というルールがあるので最初のスコープの絞り込みは簡単だ。チェックポイントについては自分で考えないといけないので、そこはXPのスコープを絞るに対応するだろう。途中で何度も見直しを
かけるというのはリロケーションに対応するといってよい。このように、オリエンテーリングの技術では当たり前のように使われている事柄が最近になってやっと言われるようになってきた。XPではまた、コミュニケーション・シンプル・フィードバック・勇気を4つの大きな価値として位置づけている。これらの事項を価値あることと共通の認識を持って開発作業をしなければ、開発はうまく進まない。XPはチーム開発に対する開発手法なので、メンバー間のコミュニケーションがでてくるが、オリエンテーリングのような個人競技へは置き換えが難しいのでこれに関しては省略する。「シンプル」とは、「動作はできるだけ少なく、必要最小限に絞れ」といっていいだろう。あえて動作が増える難しいルートを選択する必要はない。また、その時点で必要ないことまでする必要もない。1番コントロールまで行く途中で、最終コントロールからゴールまでのルートプランニングなどする必要はないのだ。「フィードバック」とは、「チェックポイントを確認してリロケーションをせよ」ということだ。最後の「勇気」とは、「必要なら最後にチェックしたポイントまで引き返す勇気を持つ」ということだ。このように、見事なまでにオリエンテーリングの技術に置き換えることができる。もちろん、本当のXPはソフトウェア開発をター
ゲットにしているので純粋にオリエンテーリングと対比させることには無理があるが、オリエンテーリングでの経験を思い返してみると、XPの主張はどれも納得ができるものなのだ。逆に今頃このようなことが提唱されていることを考えると情報技術も案外歴史が浅いと思ってしまう。授業では、こんなことを知ることはできないし、得ることもできない。このように、オリエンテーリングを通して学んだことは、現在自分が身を置いている情報技術の世界で生き抜いていくにあたっての貴重な経験として役に立っている。さまざまな技術がオリエンテーリングで経験したことと重なる部分が非常に多いのだ。逆にいま、情報技術の世界で注目をあびていることをオリエンテーリングの世界へフィードバックすれ
ばそれなりに面白いかもしれないとも思う。そのまま適用できるものはないかもしれないが、一工夫すれば応用できそうなものは山のようにある。たとえば部の運営に対しては、Eric S. RaymondThe Cathedral and the Bazaar(邦訳:伽藍とバザール,http://cruel.org/freeware/cathedral.html)という論文は読むに値するだろう。大学という枠組みの中からの視点でのみ、組織運営を考えていては行き詰まる。情報化社会、地域社会、Globalization、さまざまなキーワードが世の中には氾濫している。これらのキーワードをヒントにして新しい視点から組織の社会的な位置づけ、方向性の決定を行うことができるのではないだろうか。大学の部活は会社と比較して毎年大きなメンバ構成の
変化がある。この変化を許容することは大変だが、「変化を受け入れよ」というXPのスローガンを個人的には忘れないように心がけている。変化しつづけることやめてしまったら、それは進化をとめることになると思うからだ。


さて、同期については、みんなマイペースで好きなようにオリエンテーリングに関わっていたという印象が残っている。同期だけでなく先輩後輩についてもいろいろと紹介したいことは沢山あるが、語り始めると切りがないので残念だがあきらめた。部の運営やインカレについてはまとめることができなかったのであきらめた。あきらめてばっかりで申し訳ない。最後に、オリエンテーリングに出会えたこと、その世界を通じて知り合いになれた人々すべてに感謝すると共に、今後の東北大OLCの発展を祈願している。


[
謝辞]

30周年記念誌編集に尽力されている渡辺研也氏、最終的に原稿執筆のきっかけとなった入江崇氏、原稿の執筆が終わるのを我慢強く待ってくれた妻の佐与甲、息子の嘉之修と修生に感謝します。                 

2004/08/13 15:00 長野県上田市の自宅にて

 


高島和宏(1992年主将 1990年入学) 

 

 私たちの代の特徴は、女子部員が3名入ったことです。それまでは、宮城学院とは一緒に活動していましたが、東北大の部員としては、下野さん1名だけでした。これは、「インカレ」、しかも団体戦(リレー)を最大のイベントとするオリエンテーリングにおいて、大きな転換点だったと思います。我々が入学する前年、男子団体戦は2度目の優勝を果たしていました。入学当時、オリエンテーリングというマイナースポーツながら、全国一位になっている学友会のクラブがあると知り、妙に興味を持った記憶がよみがえります。(結局、入部して主将まで務めることになったのですが。)2年の時には、女子もリレーエリートクラスに初出場し、男子は2位と東北大が無名時代から、一発屋を経て、ついに入賞常連チームへと成長していった時代だったと思います。
 オリエンテーリングというマイナースポーツを選んでいる以上、多少なりとも個性的なメンバーが集まるのは必然とは思われますが我々の代も例外ではなかったようです。それでも結構、一緒に行動したりまとまっていた方でしょう。卒業後は、誰かの結婚式等で集まる程度になってしまっていますが、この30年誌を機にまた集まれれば、昔話に花が咲き、楽しめそうな気がします。
 私たちの代が入学した年の主将は、菊池さん、その次が小山さん。
そして、私の下の代には、入江崇。それぞれ、この30年誌にコメントを寄せていると思いますので、説明するまでもないでしょう。このような刺激的な主導者がいたからこそ、このようなクラブへと良い意味でも悪い意味でも変わっていったのだと今になって思います。自分自身は、それほどでもないと当時は思っていましたが、未だに競技を続けているだけでなく、就職先も国土地理院を選択し、最近では制限時間24時間という大規模スコアオリエンテーリングのようなアドベンチャー系のニュースポーツ「ロゲイニング」を開催するなど、年々過激になってきていることを考えますと、もしかすると、最も刺激を求め、それを他人にも要求していたのは自分自身だったのでしょう。そういえば、スキーオリエンテーリングを創めて、山形の武石さんとパイプを作ったのも私でした。富士登山駅伝に出場したり、笹谷峠から蔵王山頂までマラニックしに行ったりと、オリエンテーリングの枠を飛び出したイベントもかなり手を出していたことを思い出しました。
 卒業後にオリエンテーリングから離れてしまう部員も多いのですが、オリエンテーリングの良いところは、年齢に関係なくいつまででも続けられることです。確かに大学時代のハードな練習を行ってきた東北大OLCのメンバーだからこそ、タフな競技であるイメージを持ってしまい、足が遠のく人も多いかもしれませんが、機会があったら大会(特に東北大大会ですね。)に参加してみてください。
東北大のOBOGが頑張っていることを示すことは、現役生の刺激にもなると信じて、今後の発展を期待しております。

 


安斎秀樹(1990年入学) 

 

 この年(1993年)は打倒東大に燃えていた。前々年、アンカー菊池が東大を激しく追い込んだものの28秒差で2位、前年はアンカー安斎が2分半のリードを守れず東大の鹿島田選手に逆転を許し53秒差で2位。私個人としてもチームとしても東大に勝つことを目標に1年間取り組んできた。この年の東大は私と同期の鈴木・山本・桜井の各選手が大活躍をしており、私も彼らと競えることを楽しみに走っていた。

 東北大は3年生エースの入江崇以外は誰がメンバーになってもおかしくないくらい充実していた。一人一人の実力は東大に劣るかもしれないが、チームとしては最高の状態だったように思う。リレーのメンバーは10人以上立候補があり、オフィシャルを加えてオーダーを決める会議は夜中まで続けられ、4年間一線で活躍しチームを引っ張ってきた高島和宏、2年生ながらプレッシャーに強い土井聡、シード選手と互角に走れていた安斎、そして入江というオーダーになった。

 このほかにもクラシックでは4位に入ることになる松澤俊行、安定感があり信頼度も高かった清水和彦、23年と2年続けてリレーオーダーに名を連ねていた高橋政喜、クラシックで7位に入ること

になる野田健史、伸び盛りの柿並義宏といった実力者もおり、Bチームを出しても確実に3位争いはするだろう言われるほどだった。

 群馬は自分にとってすばらしいインカレだった。宿がよかった。伊香保温泉、琴の生演奏、皇室の御用達。泥靴厳禁と言われなくてもシューズを脱いでしまう。テレインも自分向きだった。クラシックのレースでは大きなミスをしてしまったものの当時の自分を十分に表現したと思える悔いの無いレースだった。そしてリレーでも、1走から東大とのマッチレースとなり、3走で逆転、4走が突き放す理想的な展開で雪辱を期すことが出来た。

 当時の情景は10年たった今でも克明に思い出すことが出来る。インカレで最高のパフォーマンスを発揮するために取り組んだ時間は、積み重ねて4年にもなっていた。この時間が自分にとって重いものにならないはずがない。そしてそれは世界の舞台へと続いていた。多くの仲間と支えあい、すばらしい環境で競技に取り組めたことに感謝している。

 


高島(石川)恵美子 (1990入学

 

<学びの場>
 入部は1990年、最初の女子部員である下野さん以来4年ぶりに女子が3人入った年でした。初めはあまり勝ち負けを考えず、ただ楽しんでいたのですが、大会に参加するごとに「なんでお前は遅いんだ?」と、厳しくも丁寧に指導してくださる先輩方のお陰で、だんだん競技としてのオリエンテーリングに目覚めていきました。

 その頃は、部のみんなで常にインカレを意識しよう、他大学の取り組みにも目を向けようとし始めた頃だったと思います。

 当時院生だった土方さんが主催してくださった有志での秋合宿や、小山さんの人脈で(?)さかんに参加するようになった他大学の合宿などからヒントを得て、トレーニングのための冬合宿も始まりました。

 また練習会も、ただコースを組んで走るだけのものから、目的を持ってメニューを考えるようなものに工夫されていったと思います。

 そんな良い雰囲気の中で、レースの分析さえろくにできない自分も、徐々に自分なりに目標を持ち計画を立てて取り組んだ結果、滋賀ICでの4位入賞があったのだと思います。

 団体戦については、華やかな活躍をする男子団体戦の影で、人数の少ない中でオリエンテーリングへの取り組みに対する意識の違いに悩むなど、チーム作りの難しさも感じました。その後、後輩たちががんばって活躍する姿は、OGとしてとても嬉しいものでした。

 インカレへの取り組みは、自分にとって非常に貴重な学びの場であったと思い

ます。それも東北大OLCがあったお陰です。これからもそういう場を提供するため

にも、長く続いていってほしいと願っています。

 


入江崇(1993年主将 1991年入学)

 

<当時を振り返る  -  1991-1995年>

 東北大OLC30年の歴史のなかで私たちの代が活動していた91年から95年はひとつの転換点だったように思います。

 私たちが入学した91年はすでにクラブの活動基盤ができあがっていた時期でした。インカレ団体戦がリレー形式になってから入賞すらなかった地方大学が男子リレーで一気に初優勝した4年前の群馬インカレもすでに昔のことに感じられました。また、91年には学友会加盟から7年が経過しており、学内においても学友会体育部の一員として組織の基盤が固まっていました。クラブ創設期から長く続いた劇的な変革の時期はすでに終わっていたといえるでしょう。

 しかしいつの時代にあっても組織を構成する人の入れ替わりとともにクラブの形相は変化していくものです。私が活動していた91年から95年の間にも毎年少しずつの変化が積み重なってクラブを取り巻く環境が大きく動いていくのが分かりました。4年後に部を後にするときには、入部したときとは明らかに異なる新しい段階に入ったと感じました。

 

<「走力だけの東北大」から学生クラブを代表する存在に>

 

 この時期の変化のなかで、まず何よりもはっきりしているのは、全国でもトップレベルの競技力をもつ大学クラブとして認知されるまでになったことでしょう。

 この事実を確認するには、91年以前とそれ以後のインカレの成績を比べてみると分かりやすいと思います。87年度の男子リレー初優勝後も、有力校ではあるが実力は未知というのが東北大に対する客観的な評価だったようで、私が入学する直前の90年度の岐阜インカレでは男子はウムスタートを経験しています。(一方、女子はインカレ一般クラスで初のリレー出場を果たしている。これは後述。)翌91年度からは男子リレーの入賞が毎年続くようになり、93年度には4年ぶり3回目の優勝を果たしています。

 インカレ個人競技の成績でもこの傾向は顕著です。東北大からの入賞者は82年度に初入賞した松島寿さん以降、8991年度の菊池正昭さんだけでしたが、92年度以降男子では複数人の入賞が続き、女子も92年度に石川恵美子さんが初入賞して、以降も男女とも現在までに多くの入賞者・優勝者を輩出しています。

 

 この躍進の背後にあるものは何だったのでしょうか。それはひとことで言ってしまえば、当時に至るまでに過去何世代にも渡り、クラブとして進むべき方向を定めて地道に取り組んできた成果に違いありません。

 オリエンテーリングは基本的に個人で行う競技ですが、個人または限られた人数での努力だけでは乗り越えるのが困難な壁が存在します。リレーまたは個人という競技形式にかかわらずインカレで一度でも入賞するためには、目標の達成に向けた環境を創るためにクラブを挙げての取り組みが必要だったはずです。私自身のことを考えても、このクラブの一員だったからこそ、同じ思いをもった仲間とすごせたからこそ、この競技にまっすぐにつぎ込めたのでしょう。

 しかし、たとえクラブ内の環境が整ったとしても、結果はすぐにはあらわれてきません。長い期間を辛抱強く踏ん張り続けて成果を徐々に重ねていくことで、しだいに目標を現実のものとしてとらえるようになり、91年頃になってようやくコンスタントに入賞できるまでになったのでしょう。

 そう考えると今の活躍の根本はクラブ創設の時期にまで遡れると思います。いつの時代も先輩方がクラブのあり方を真剣に考え、そういう姿勢を後輩たち伝えていくことで、クラブの形ができてきました。とくに83年から84年にかけて学友会のクラブとして再出発するという決断をしてからの組織的な取り組みは、その後のクラブ運営に大きな影響を与えたと思います。クラブ活動の基礎として日常のトレーニングを重視するのは競技スポーツとしてあたりまえのことですが、当時は全国的にも時代の先駆けとなるような挑戦でした。

 91年はそうした時代の先を予期しての長年の地道な活動が実を結んで表面にあらわれはじめた時期だったといえるでしょう。

 

<女子チームの挑戦>

 

 もうひとつ特筆すべきことは女子のインカレリレー初出場です。

 男子が91年度から安定した成績を残すようになる一方で、この頃の女子はチームとしての基礎固めの時期でした。初の女子部員である86年入学の下野由美子さん以後しばらく女子の入部が途絶えていましたが、90年に3人の女子が入部します。その年のインカレでは1年生3人のチームで女子リレーの一般クラスに出場し新人特別表彰を受けています。翌91年には4人、92年に1人、94年にも3人の女子が入部し、いよいよチーム作りの体制ができてきます。

 91年度に念願のインカレリレーエリートクラスに初出場を果たします。人数が少ない中でのチーム作りは簡単ではありませんでしたが、毎年初入賞を目標に掲げリレーに臨みました。初出場から4年間の成績は11位→12位→11位→10位と入賞こそならなかったものの着実に経験を積んできました。

 私の現役時代にはついに女子の入賞を目にすることができなかったのは非常に残念でしたが、この時期に築いた基礎は、みごと翌95年度に成果となってあらわれ、待ちに待った初入賞を達成してくれました。

 

<クラブに内在する諸問題>

 

 インカレの成績のみに着目してこの期間を眺めると、この4年間でクラブは安定期に入ったようにみえます。しかし安定がもたらすものはいいことだけではありません。当時のクラブは組織を運営していくうえで2つの大きな課題を抱えつつありました。

 

 1つ目は、今まで強めてきた競技力をこれからどう維持していくか、いっそう高めていくにはどうすればいいかという課題です。当時のクラブの活躍の背景にはこれまで成しえなかった困難な目標へ向けての積み重ねがあったということは既に述べたとおりです。しかし、インカレで毎年いい成績を残すようになると、その環境を創り出すまでに要した何年間もの取り組みを意識するのが難しくなってきました。

 私のひとつ上の90年入学の代が、90年度インカレでの惨敗を実際に経験している最後の代になります。私たち91年入学組はそれを直接は経験していませんが、91年度インカレまでの1年間は悔しさの中で再起を目指す先輩の姿を見て過ごしてきました。92年組以降は入部した時点ですでに「強い東北大」だったということになります。部員のまとまりから生まれる継続した鍛錬があってこそ強さを維持できているのだという実感が、年を経るにつれて部員の意識から薄れていくのを感じずにはいられませんでした。過去の蓄積があるからまだ表面的にはなにごともないようにみえていますが、いずれ問題が表にでないうちにクラブを立て直すことが必須であると思いました。

 

 もうひとつさらに大きな課題がありました。それは、部員数の急増によってこれまでのやり方ではクラブの運営が立ち行かなくなってきていたのです。1つ目の課題である競技面の意識の変化も、大きくとらえれば、このクラブ運営にかかわる問題の一部といえるでしょう。

 当時の部員数がどのくらいだったかというと、90年の前の数年間は一学年の人数は平均すると10人にも満たない程度でした。それが91年からの4年間には毎年約20人が入部し、部員数は一気に倍増します。

 それまでの少人数の組織では、毎日のトレーニングの習慣作りから、日頃の練習会運営や部誌発行、渉外活動、イベント企画、そして毎年の大会開催や地図調査に至るまでの多くの活動を継続的に機能させるために、部員のほぼ全員が何らかの主要な役割を果たさざるをえませんでした。活動への寄与の程度は個人によってばらつきがあったのはもちろんですが、少人数でクラブを継続させるためには部員の結束力が不可欠であり、その頃の部員ひとりひとりのクラブ運営に対する当事者意識は相当なものだったのでしょう。また、84年の学友会創部がまだ遠い過去のことではないと思える時期には、自分たちが部を創ってきて自分たちの行動しだいでこの部はいい方向にも悪い方向にも変わるんだとの実感がまだ強くあったのだと思います。

 91年あたりからクラブの内部状況が微妙に変化してきました。目的の共有による部員の結束を前提としたこれまでのクラブ運営では、部員の考え方の多様化に対応できなくなってきます。部員が増え始めた9192年当初はまだ潜在的な問題でしかありませんでしたが、部員数の増加とともに変化は徐々に顕在化し、93年に私が主将を務めたときには危機感をはっきりと意識するようになりました。

 大所帯の部に移行すると、必ずしも全員参加型の体制でなくともクラブは機能し、部員ひとり当たりの仕事量という面でも余裕が生まれてきます。このような転化がプラスになる点は、個人が組織にあまり束縛されることなく多様な活動の仕方や自分のペースにあったクラブとのかかわり方ができるということです。組織が個人の集まりで成り立っている以上、クラブに所属することが個人にとって有益であることは、組織が発展していく上で最重要の要素です。

 しかし一方で、個人の快適さが強調され、将来にわたってのクラブのあり方を大局的な視点で考えようという個人レベルでの意識が薄れてくると、部員の自発的な参加によって支えられてきたこれまでの運営形態では、クラブの結束を保つのが難しくなってきます。

 このような状況の中、クラブの軸がぶれてまとまりがなくなるのを私は恐れました。なぜなら、何度も繰り返すように、今まで部員の結束があったからこそオリエンテーリング競技に対する真剣な姿勢が生まれ、結果がでるまでの苦しい時期を乗り越えることができ、それがようやく根付いて今のインカレでの活躍などの成果があるからです。取り組みの成果は何年か過ぎたころにあらわれます。逆に今個人が自由に好きなことだけをして将来のクラブにために何もせず、これまで育ててきた資産を食いつぶしてしまったら、数年先に残すものがなくなり、将来の部員たちがオリエンテーリングを通じて幅広く活動する可能性を潰してしまうことになります。それだけはどうしても避けねばなりませんでした。

 課題は、個々の意思をできるかぎり尊重しながらも、クラブとして最低限これだけは大事にしようという行動規範や価値基準を共有できるような環境をつくることでした。

 

 私が主将のときの執行部の基本的なスタンスは2点に集約されます。

 まず1つは「オリエンテーリングの競技力向上のための(自己の/他者の/クラブの)活動を尊重すること」です。過去に2度の審査を経てようやく学友会への加入を許され、学友会の一員として各方面からのサポートを受けながら活動してきたという経緯ひとつをとっても、競技力の向上という活動をどこか軽視するような風潮を認めると根本的におかしなことになります。全員が競技を最優先に取り組むべきだということではなく、他に優先することがある人もクラブの日常のトレーニング環境の維持がクラブにとって大事であることを理解し、それを損なうような行為は控えようということです。「なるべく頻繁に学習室に顔をだそう。学習室にきたらできるだけ一緒に走ろう、地図読みをしよう」といった雰囲気をつくることです。

 これを実現するための組織的な対策を私は見つけることはできませんでしたが、主将としてと同時にひとりの部員としては、同じ問題意識をもった仲間とともに学習室の現場でのボトムアップ的な取り組みによって解決しようと試みました。行ったことは単純です。とにかく毎日学習室に足を運びました。そこで部員と一緒に走り、自分がトレーニングする姿を見せ、考えていることを理解してもらおうとしました。毎日のトレーニングで継続して互いに刺激を与え合うことで、そのような体験を共にしてきたメンバーの間には例年に劣らない強固な結束ができたのは確かだと思います。結果に徹底的にこだわってはじめて生まれる苦しさや楽しさを、学習室の中心である下級生にも伝えることにもなったと思います。この年のインカレ男子リレーの4年ぶりの優勝はその成果のひとつといえるでしょう。しかし、組織的な対策としては打つ手がないままであり、部全体としての一体感はむしろ薄れているのではという懸念は消えることがありませんでした。

 

 次に2つ目の方針は「活動への参加は(クラブの不利益にならない限り)基本的に自由であるが、活動に参加できない場合は(自分だけで決めて行動しないで)他者の理解を得ること」でした。当時、執行部では「競技力向上の尊重」という方向性を掲げましたが、他方でクラブ活動への参加の仕方は個人の自由であるべきとの声も大きくなっていました。部員によってオリエンテーリングを通じてやりたいことや優先することが違う以上、クラブが一方的に押し付けるようなやり方はいい結果を生みません。しかし、これだけ部員数が多くなってくると、各自の自主的な行動に期待した今までのクラブ運営では、クラブがまとまるどころか逆に発散してしまいます。仕事の負荷が一部の部員に集中することによる弊害も無視できなくなっていました。執行部として組織的な解決策を打ち出す必要がありました。

 執行部のとった対策は、個人と組織の間でなんとかバランスする妥協点を見つけるような苦しいものでした。活動への参加は基本的に自由としました。ただしそれには条件をいくつか付けることにしました。ひとつは前述のとおり活動に際して「競技力向上を尊重」することであり、もうひとつが練習会など部の公式のイベントに参加できない場合は事前に届け出ることでした(「欠席届」の提出という仕組みで運用した)。「事前に届け出る」ことにより、それが他者の理解を得たものと認められることで、違う立場の部員同士が納得したうえでクラブ活動を進めていくことが目的でした。この方法が表面上であってもうまくいくことを期待しましたが、やはりある意味儀礼的でしかなく潜在的には問題が残ったままで根本的な解決にはなりませんでした。

 極端ないい方をすると、もしかするとクラブが分裂するかどうかというギリギリのところまで、クラブのあり方を根本から部会の場で逃げずに議論していくべきだったのかもしれません。しかし当時そのような行動をとって結果に責任をもてるだけの勇気もなく、この4年間に生じた内部変化の流れに適切な処置をすることはできませんでした。この大きな課題にどう対処するかは後の世代に委ねて、私は部を後にすることになりました。

 

<そして、これから>

 

 このように91年から95年の4年間で、対外的な活動においても内部環境もクラブの状況は大きく転換しました。その後の東北大OLCの活躍を外側から眺めると、91年度から今も続いている男子のインカレリレー連続入賞の記録は驚くべきことです。女子の念願のリレー初入賞やその後の男子をも凌ぐ好成績は当時を考えると到底信じられないほどで実に感慨深いものがあります。これは今の宮城学院の活躍をみても全く同じ思いです。東北大のOBOGもオリエンテーリング競技の各方面で活躍しています。とくに91年入学同期でもある松澤俊行が全日本のタイトルをとり日本のオリエンテーリング界を代表する存在として活躍しているのは自分たちの誇りです。

 今の東北大の活躍をみると、当時私たちが心配していたクラブ運営の諸問題の大半は杞憂だったのかもしれません。あるいは、もしかすると今こそ同じような課題への対処が必要とされているのかもしれません。現役の部員の皆さんには、いつの時代でも自分たちの活動の背景にある過去の資産と将来のクラブに対しての責任を忘れることなく大局的な視点をもっていてほしいと思います。その上で自分たちがこうあるべきと考える方向にクラブを変えていくのは現役の皆さんです。その行動の積み重ねの先に私たち過去の人間ではできなかったことが見えてくると思います。今後も新しいことに挑戦し続け、東北大OLCの活動を日本のオリエンテーリングの発展につなげていってください。そして私が現役のときの夢であったインカレリレーでのアベック優勝をいつか成し遂げてくれる日を心待ちにしています。

 

 

 最後にこの場をお借りしてひとことお詫びとお礼を述べさせてください。20年目のときに私たちが責任をもって編集作業を果たせなかったことをお詫びいたします。あれから10年が過ぎたいま、渡辺研也さんは30年という期間を根気強く一からまとめ上げ、ついに形にしてくれました。渡辺研也さんをはじめとする30周年誌作成委員会の皆さんに深く感謝いたします。

 


松澤俊行(1991年入学)

 

 【インカレの思い出】
「あの頃」は、インカレが全てでした。

 今となっては「インカレはオリエンテーリングの一部」で、「オリエンテーリングは人生の一部」ということが分かるようになりました。それでも、「あの頃」は「全て」で良かったのだと思えます。2度とインカレに出ることのできない2度目の大学生生活を送る現在だからこそ、一層そうした思いを強くしています。

 この5〜6年の間、全日本選手権も二度獲得し、日本代表遠征として何度も国際大会に出場しました。インカレ以上の競技レベル、インカレ以上にコントロールされた運営の真っ只中に身を置いてなお、インカレの魅力が色あせて見えることはありません。それはやはり、自分が東北大学でオリエンテーリングをしていたこと、そして今も東北大学が(競技・運営両面で)活躍していることによるのだと思います。

 近年、「関東学連リレー」に「大学対抗OB・OGクラス」が設けられるようになりました。いつの日か「あの頃」の4人で出走できないか、そして優勝できないかと夢見ています。
 


柿並義宏(1994年主将 1992年入学)

 

  10年前を今思い出してみる。ひたすらオリエンテーリングをやり、考え、悩み、悔やんでいたことが思い出される。それだけひとつのことにエネルギーを注ぐ若さがあり時間があったのだろう。それゆえに思いも深かった。今、当時書いた下記の文章を読んでみるとそれが分かる。単に主将だったからだけではないだろう。オリエンテーリングから、そしてこの部から教わったことはものすごく多い。果たして私は「恩送り」ができたのだろうか・・・

 

 私が主将になった94年はおそらく東北大OLCの部員が最も多かった年だと思います。90人弱だったと思います。部員は私たちの一つ上の代(入江主将の代)から増え始め、以前の部員が少なかった時代のやり方では、まずい点が多くなりはじめ、それが一気に表面化した、そんな時代の主将だったように思います。

 

 私は前年度副将をしていたにもかかわらず、部に対する認識が甘く、最初のころはたいした問題ではないように思えていました。本当にまずいと考え始めたのが筑波大大会があったころなので10月くらいだと思います。このころは自分自身のOLのスタイル等で悩んでいたこともあり、そのことを考え始めると、すぐに部のことを考え始め、結論のない議論が頭の中で始まり、朝、新聞がとどく音を聞くことがしばしばありました。このころは精神的にかなりきつかったという記憶があります。私はあま

り、強く、きつく言うほうではないので、主将として何をするか、ということになるとこうあるべきだと考えている選手としての自分、部員としての自分を示していくことしかできませんでした。多くの部員に声をかけて少しでもOLが楽しくなり、部に顔を出してくれるようになり、少しでもうまくなりたいと思ってくれるようにすることしかできませんでした。

 

 主将をやって今でも悔やまれるのは、インカレに向けて部全体を盛り上げることができなかったことです。このことには気付いてはいたのですが、どうすることもできず、インカレを迎え、その通りの結果しかでませんでした。主将として一番大変で、かつやりがいのある仕事を失敗してしまったのです。部の盛り上がりが成績につながる、ということに関して異を称える人もいるかと思いますが、優勝した筑波は非常に部全体で盛り上がっていたのは事実だし、優勝した前年と比べても何か冷めた感じがしていたのも事実です。今年度も何となく昨年の感じをひきずっている感じがしていて、何とかしたいと今でも考えています。それくらい悔やんでいるということです。

 

 私の場合、部の現状の把握が悪く対策をたてられなくなってしまったので、その反省を生かして、現執行部にたいしていろいろなことを言うようにしています。今後も、できる限りそうしていくつもりです。これからも強く、楽しい部であってほしいですから。

 


土井 聡(1992年入学)

 

<インカレの思い出>

今回この原稿の依頼を受けて、東北大OLCが30周年を迎えるということを初めて知りました。東北大OLCがちょうど自分自身とほぼ同い年ぐらいで、それだけの長い歴史があるという事を知り、感慨深く思います。こうなったら自分が死ぬときくらいまでは、続いてて欲しいなどと思う次第です。

さてその長い歴史のなかで、私が在籍した4年間の思い出について書いていきます。大学4年間ほとんどオリエンテーリング・東北大OLCを中心に廻っていた私の生活で、思い出を書こうとすれば書ききれないのですが、ここはやはりハイライトとなるインカレ、中でも団体戦を中心に書いていきたいと思います。(別に個人戦を軽視していた訳ではないのですが、結果的にぱっとしないまま終わってしまったこともあり、今では希薄な印象しか残ってないのです。)

私が入学した当時、東北大OLCは既に部員数が70名を超えるような大きな部になっていました。インカレとか全国的にも活躍しているとの噂もあり、しかもコンパスひとつで始められる手軽さから、何か変わったことをしてみたいと思っていた私は、なんとなく学習室を訪れ、そのまま入部してしまいました。

最初のインカレ’92は、滋賀でした。1年間夢中でやってきたその成果を示そうという意気込みで望みました。結果は、個人戦は新人クラスでまずまずだが目立たない程度、団体戦は一般クラスで2位かつ新人賞というこれ以上ないぐらいの良い成績でした。このときのリレーメンバーは野田、柿並、私でしたが、その後もこの3人で稼いだいろんな大会でのメダルの数は数えきれないほどです。良い仲間かつライバルに恵まれていました。

このようにまずまずの成果を収めたインカレではありましたが、同時に主役はやはりエリートなのだと痛感したインカレでもありました。特に男子の団体戦選手権クラスは、惜しくも優勝に届かず2位という結果でしたが、とても感動的でした。ぐったりして引きずられている安齋(秀)さんの姿は今でも印象に残っています。ともかくこのとき、見込みがある訳でもないのに、来年はきっとエリートに出ようと決意しました。

2年目は私にとってとても勢いのある年でした。秋から急に調子を上げてあれよあれよという間に、個人、団体戦ともエリートに選出されました。インカレ’93は群馬でした。結果は、個人戦はともかく、団体戦は優勝と最高のものでした。このときのメンバーは走順に高島さん、私、安齋(秀)さん、入江さんで、本当に信頼できるメンバーでした。特にこのころの入江さんなどは、神的な存在でした。この信頼感というのは、本当に大きな力を持っていたと思います。ちなみに、個人戦では私と高島さんより上に松澤さんと野田がいました。それぐらい選手層が厚い年でした。このため自分自身にも、個人戦で大活躍している松澤さんや、野田を押しのけて代表に選ばれたぐらいなのだからきっと大丈夫と、言い聞かせることができました。そんなこともあり、一般的な下馬評ではそこまでいかなかったと思いますが、私は優勝できることにかなり確信を持っていました。周りの人に精神的に支えられている形で、私は自分自身の役割に集中できて、当時としては最高の走りができました。そして他のメンバーも最高の走りで、前年までの惜しくも優勝まで届かないという状況を覆し、悲願の優勝を成し遂げました。

そして3年目、インカレ’94は静岡でした。個人戦は相変わらずいまいちでしたが、団体戦はメンバーが一昨年以上に充実し、当に大本命として望みました。メンバーは走順に、私、入江さん、野田、松澤さんでした。そして実際、3走までは2位に10分以上差をつける横綱相撲といってよいレース展開でした。しかし悲劇は4走で起こりました。松澤さんが大爆発してしまい、最後は3位へと沈んでしまいました。後で松澤さんの辿ったルートを見せてもらったのですが、本当に信じられないぐらい彷徨っていました。外部の人から見れば3位でも十分じゃないかと思うかもしれませんが、当時我々の頭の中には全く優勝しかありませんでしたので、落胆は酷いものでした。表彰式の時には、なぜ我々はあの表彰台の頂点にいないのか、そんな不思議な気持ちで見ていました。

最後の年、インカレ’95は日光でした。この年私は、年明けから足を故障して体力的に万全とはいえない状態でした。個人戦も冴えないまま終り、団体戦を迎えました。メンバーは総順に、寺内、私、柿並、野田でした。私は故障上がり、野田も故障を抱え痛み止めを使っての出走、寺内はまだそれほど安心感のある存在ではなく、優勝候補の一角ではあるものの、いろいろ不安を抱えての始まりでした。結果的に大きなロスをしたのは私でした。前半のあるレッグで少しおかしいと思ったときに、後少し動けばコントロールが見つかっていたのですが、体力的に自信がなく、また前年の悲劇が頭にあるため、足がすくんで動けなくなり、コントロールからそれ程遠くないところで非常に大きなロスをしてしまいました。そして私がゴールした時点では、優勝できないことをほぼ覚悟せざるを得ませんでした。しかし、その後の柿並、野田の追い上げ、他チームの脱落などもあり、結果は逆転の優勝でした。その日表彰式の始まるころから、私は高熱を出していました。第2の悲劇になるはずが、すんでのところで間逃れて結果は最高の成績、表彰式の時にはぼーっとした頭で、うれしさと共に、なぜここに立っているのだろうとそんな不思議な気持ちでした。

インカレでは成功も、失敗もありましたが、全体として考えると本当に良い思いをさせてもらいました。数十名の部員の代表となり、なんともいえない緊張感の中で仲間からの背中を押されるような声援を受けて走り、そのうち何度かは頂点に立てた、こんな経験はもう二度とないのかもしれません。一方で、僅かの差で代表になれずに選手権クラスを走れなかった人も多くいました。しかし、そのような競争の中で勝ち抜くことが、実際に走る選手に自信を与えてくれていました。東北大OLCという環境と仲間によって、鍛えられ、精神的な支えとなって走る、それがインカレの団体戦だったと思います。

4年間という限られた時間の中であればこそ、いろんなドラマがありました。今の現役生、そしてこれからの現役生にも、4年間成功ばかりすることはないと思いますが、全体として東北大OLCに入って本当に良かったと思えるような良い思い出を作っていってほしいと思います。

 


山口 佳吾(1995年主将 1993年入学)

 

93年入学の山口といいます。三重県出身なので「みえちゃん」と呼ばれていました。95年度に主将を務めました。

 入部した当時は、超特急エリートの入江崇さんをはじめ、きら星の如く輝くよき先輩がいらっしゃり、がしがしトレーニングに打ち込めた世代です。トレコースは、仏舎利、女子高、十字路、金博、お宮参り、観音などがスタンダードで、月に数回河原ビルドアップや名取川LSDがありました。走り終わった後は、なんとなくみんなで文食へ行き、夕飯を食べて家へ帰る、の繰り返しでした。個人的には毎週末には早坂荘へ行き、徹マンばかりしていました。今思えば、トレーニングで身に付けた体力をOLに使わず、牌をツモることに使いすぎた気がします。

 1,2年の頃は、遠征は鉄道が中心で、今は無き東京ミニ周遊券を使ったり、バラ売りだった18切符を使うのが当たり前でした。帰りは上野発17時過ぎの快速ラビットに乗り、先輩方にルートを見てもらいながら帰仙するなど、貧乏の中にも和気あいあいという感じでした。3年になった辺りからは、自動車保有率が高くなり、鉄道利用者は徐々に減っていったような気がします。便利にはなりましたが、ちょっと寂しい気もしました。私は、高島和宏さん(90年入学)の友人から日産ラングレーGTを譲ってもらい、遠征費用を抑えるため早朝出発で高速道路代を浮かし、5乗(5人乗り)にしてガソリン代を頭割りすることで、コストを抑えていました。今思うと、バブル全盛期の割りに貧乏だった人が多かったのは何故なんでしょう。

さて、93年入学と言いますと、競技面では常にトップの座を走り続けた『変態』寺内亮太君と、4年になって大躍進した出島秀一君がいます。競技では今ひとつだったかもしれないけど、公私ともに『マニアック』だった松浦泰宏君や、自称ホヤをさばけるOler溝口竜一郎君など、個性豊かな連中が集まり、東北大OLCを支えてくれました。私は、団体戦を走ることはできませんでしたが、個人戦では3回「枠」を取ることで、最低限の役割は果たせたかな、と思います。

また、東北大大会用地図は、『陸奥上街道』と『太白星』を作りました。『太白星』は、太白山のコンタが実は1本線だったり、隠れキャラ満載だったというのも、懐かしい話です。

最後に、残念ながら私達の代は、OLから遠ざかっている仲間が多いです。しかし、学習室でまったりしているのが至福の時だった人は多かったはず。たまには大会で会いたいものですね。

 

 


出島秀一(1993年入学)

 

<インカレの思い出>          

 大学4年間を通して私のオリエンテーリングに対するモチベーションが維持できた のは,インカレのおかげでした.それは,卒業してからはインカレに参加できなくなり,大会に参加する回数が減ってしまったことからも分かります.参加した4回のインカレはそれぞれ思い出深いものですが,そのインカレの中で最も心に残っているのは3年時に参加した96年の日光インカレです.

 私は3年時まではあまり大会の成績が良くなかったために,日光インカレで出場したクラスはクラシックが学生併設クラス,リレーがMIXチームでした.成績が良くないと言っても,他学連ではエリートを走れるレベルだと思っていましたので,レベルの高い北東学連に所属していたことを恨んだ事もありました.とは言っても,インカレに参加するわけですから,自分なりに十分に準備をしました.走り込みや,地図読み,練習会への参加,イメージトレーニングなどでフィジカル面・メンタル面を鍛え,例年通りの意気込みでインカレの臨みました.例年通りの準備ですから,結果も例年通りだと思っていました.しかし,結果としてクラシック,リレーとも優勝しました.しかも,2位以下に大差を付けての圧勝でした.たとえ学生併設クラスといえども,優勝はうれしいものです.後になって気づいたのですが,インカレ対策直前練習会の時に,地図とコンパスの使い方を改めて理解したことが要因だったのでしょう.それが結果として表れたのだと思います.優勝という結果も重要でしたが,それよりもオリエンテーリングそのものが1ステップうまくなったという事実が大きな自信と喜びになりました.間違いなくこの経験が引き金となり,次年度の奈良インカレにおいて,クラシックエリートでの入賞,リレーでの入賞につながったのだと思います.さらに,今でもオリエンテーリングを続けているのは,この日光インカレのおかげだと思っています.このように,日光インカレは私のオリエンテーリングが大きく

変化した重要な大会でした.

 社会人になってからは,全日本大会・世界選手権やクラブカップなどをモチベーションとしてオリエンテーリングを続けることは可能ですが,学生時代のインカレとは趣が異なっているように思います.学生時代のように,同期・先輩・後輩に恵まれ,お互いの技術を切磋琢磨できる良い環境で毎日鍛錬し,日本一を目指して戦える機会はほとんどありません.特に,東北大OLCは,インカレでの結果からも分かるように,非常に恵まれた大学クラブの1つだったと思います.この良き伝統を受け継いで強い東北大であってほしいと思います.

 


佐藤時則(1996年主将 1994年入学)

 

<東北大OLC30周年記念に寄せて>         

 東北大オリエンテーリング部の30周年を記念するにあたり、原稿依頼を受けました。

 最後に「だっちゃ」に原稿を書いたのは、いつの頃だったろう・・・、思い出すこともままならないほどに、卒業してからの時間が流れています。

 卒業してから、早7年目の夏。日常の仕事の中で忘れてしまった、夏のイベントたち。夏合宿、セレクション、そうそう富士登山競争もありました。北大大会に便乗した北海道旅行も懐かしく、現役の世代をこの上なく羨ましく思います。

 さて、30周年を記念するにあたり、どんなことを書こうかと、ふと、物置の奥から、「だっちゃ」やら、写真やらを取り出してみました。古紙独特の少しカビっぽい臭いとともに、そこには、大学生だった自分たちの姿が、懐かしく思い出されるのかと思いました。ところが、閉じ込められていた思い出はあまりに鮮明で、時間がそのときに戻ってしまったかのような錯覚の中に自分自身がいることを感じました。時間の壁をトーンと突き抜けたような感覚に(年甲斐もなく)陥ってしまったのです。

思えば僕らの代は、東北大女子の存続を図るため、先輩方の熱心な勧誘活動により入部した女子3名の存在をはじめ、男子もタレントに溢れていたように思います。自惚れを自覚しつつ言えば、東北大OLCの恩恵を最も受けた代であったと思います。僕らの入部したときの東北大OLCはまさに学生オリエンテーリング界のトップにありました。僕らが在籍した4年間、男子リレーは、静岡3位、日光1位、奈良2位、常磐1位の成績を収め、女子も静岡の10位から翌年日光では3位(初入賞!)を飾り、奈良3位、常磐5位の成績を収めています。更に自慢するならば、同期インカレエリート数は東北大OLC史上(たぶん)最多で、インカレ入賞者も(たぶん)最多で、インカレリレー優勝経験数も最多(タイ)で、学友会長賞受賞2名も最多です。インカレシードになるよりも、団体戦リレーのメンバーになることの方が難しい時代でした。夜が更けるまでメンバー選考を早坂荘で行っていたことを思い出します。他にも、松島LSDや北雄杯駅伝、深夜マラソンなどなど思い出すごとに、込み上げる気持ちに薄らぎがないことを不思議なほどに感じています。

しかし、そんな思い出の一方で、(やっぱり思い出は美化されるものなのかな)自分が主将を務めていたときには、部員数は80名を超え、部としてのまとまりに非常に危機感を持っていたことも思い出されます。部員の意識の多様化と部への関わりの希薄さ。オリエンテーリングは個人競技であるけれど、組織として部に属している以上果たすべき義務があると、主将として取り組んだ1年間。思い出すほどに自分自身の力のなさを通感するわけですが、それでもなお、力不足であった主将を支えていただいた方々に恵まれたことに感謝したいと思います。

 僕らにとって東北大OLCで過ごした4年間は過ぎたことではあるけれど、損なわれたり失われたりするものではなく、僕らの4年間を中心とした先輩・後輩の言葉、雰囲気は、いつでも呼び起こせるのだと改めて感じています。

 うまく表現することはとても難しいのですが、今ここにいる自分たちにあの4年間があったことをこれほど幸せに思うことはありません。

あらためて、東北大OLCに ありがとう。そしてこれからの部員たちに幸多きことを願っています。

 

 


白土英治(1994年入学)

 

日光の山の中で調査原図を片手に思うことなど

 ちょうど10年前の夏は、初めての夏合宿で静岡にいました。あの頃は北東インカレとは言われておらず、夏セレと呼称されていたような気がします。当然新人クラスでジャージを着て出走していたわけですが、陽射しは強烈だったし、技術もまだまだで2つ目の関門前にマップアウトをしたり、と結構大変なオリエンテーリングをしていました。それでも自分では、完走してタイムが出ただけでも満足、と思っていたのです。しかし、夜の表彰式で当時チャンプの入江さんが、「時間がもったいないので給水はしなかった」ということをおっしゃっていて、オリエンテーリングはタイムを競う競技なんだ、と当たり前のことなのだけど強烈に実感することができ、たぶんあの日を境に私はオリエンテーリングに打ち込むようになったんだろうと、思うわけです。

 その後4年間オリエンをやり続け、良い結果も悪い結果も、それ以前に結果さえ出せなかったこともあり、さまざまな感情とともに駆け抜けてきたと思います。ありきたりだけれども、そんな場所を提供してくれた東北大OLCには感謝しています。

 卒業後はちょっと間が空きましたが、今度は大会運営に携わることが多くなり、今回は4度目のインカレ運営になります。一昔前は「自分が参加した回数だけインカレを運営するんだぞ」ということが言われたこともありました。が、そういう義務感に駆られてやっているわけではなく、楽しみながらやっています。苦労も多いですが、当日無事に終った時の開放感と充実感は参加する側には得られないものがあります。そんな中でも一番嬉しいのが、やはり東北大が良い結果を残してくれること。そして一番悲しいのが、学生が運営者の指示を聞いてくれないこと。感謝してくれとは言いませんが、運営する側も参加する側も一緒にインカレを作っていくんだ、という意識は持って欲しいなと思います。

皆さんもできることならインカレ運営に参加してみて欲しいですね。


な〜んてことをコンパス振りながら思ったり。ここのコンタが違和感あるんだよね‥。

 


山田 敦史(1997年主将 1995年入学)

 

 <東北大OLCの思い出>

 はじめに、私達の代の自慢を書かせてもらいます。私達が在籍した4年間、インカレリレー(男子)の順位が1位→2位→1位→2位で、合計6位になります。これは、東北大のみならず、インカレ史上最高の数字です。それだけ東北大の強い時代にオリエンテーリングに打ち込めた学生時代を今では懐かしく思います。

 とは言っても、当時の部全体が競技一筋に染まっていたかというとそうでもなく、私が主将をしていた年も部員が80人を超え、オリエンテーリングに対していろいろな考えを持つ部員達をまとめるのに苦労した思い出があります。

 私達の代は、部員がわずかに10人と、前後の代と比べると少数ではありましたが、個性的な部員が多く、オリエンテーリング以外でも楽しい思い出がたくさんあります。卒業して全国に散らばってしまった今でも、年に一度の青葉会総会では、毎年最高の出席率で中心的存在になっています。

 現役部員達、そしてこれからの部員達にも、オリエンテーリングに対して個々の楽しみ方を尊重しつつ、それでいて高い競技レベルをずっと維持できている東北大OLCで学生生活を楽しんでもらいたいと思います。そして、卒業後もその思い出を語り合えるような青葉会を創っていきましょう。

 


小野田雄介(1998年主将 1996年入学)

 

98年度主将の小野田です。主務は渡辺優氏、副将は八巻得郎氏、副務は小林啓恵氏というメンツの執行部でした。部員数は80人を越え(うち女子部員は10人)、学友会体育部の中では陸上部の次に部員数の多い部活でした。これは、積極的な新勧活動の賜でしょう。魅力的なキャッチフレーズを散りばめたビラを配ったり、綺麗な立て看板を作ったり、ナンパまがいの勧誘を行ったり、そして学習室のイメージアップのために過激派の落書きを模造紙で隠したりもしましたから(この落書きは学習室のお別れ会の時まで封印されていました。模造紙を外したときに、初めて見て驚いた後輩もいましたね)。

 私が主将だった頃の特色としては、練習会の充実でしょうか?部員数が多かったために、ストイックなトレーニングを全体でやるというのはなかなか難しいものがありました。しかし練習会なら、どんな人でも参加できるだろうと言うことで、力を入れました。向こう1ヶ月の練習会の予定は予め決めておき、スケジュール表を部会ごとに配るということをしました。これは練習会の情報を知らずに参加できなかったということをなくすのに役立ったと思います。

 部員の雰囲気としては、多様という言葉がぴったりでした。オリエンテーリングに競技として打ち込む人もいれば、リクレーションとして楽しんでいる人もいました。90年代前半はすごい量の走り込みをする人がたくさんいたらしいのですが、私の代では月200km以上走り込む人はあまりいませんでした。足の東北というイメージはこの頃はあまり強くなかったように思います(むしろ技巧派?)。それでも名取LSDは良く行われていましたし、松島LSDも年に1-2回ありました。

 だっちゃの内容も多彩でした。オリエンテーリングやトレーニングのネタ以外にも、様々な旅行記、青葉山殺人事件物語(匿名)、語らせろ(市川氏)、まさるの部屋(渡辺氏)、佐々久について(井上氏)、マックバーガー99個を11人で完食(小木田氏)、ペンシルロケットの作り方(大野氏)などなど。思い当たる節がある人もいるのではないでしょうか?

 98年度の主なイベントとしては、筑東戦(プラトー里見)、北東インカレ(赤城)、東北大大会(大崎合戦紀)、インカレショート(恵那)、インカレ(秋吉台)がありました。詳しい戦績は他のページにあると思うので書きませんが、インカレ男子リレーのアンカー石井さんのすばらしい猛追、しかしあと一歩届かず2位に終わってしまった無常さは、個人的に一番の思い出です。女子リレーは元気な2年生達の活躍で3位入賞を果たすことが出来ました。

 部としては、黒川杯と仙台市スポーツ賞を受賞しました。

 


八巻得郎(1999年主将 1997年入学)

 

OLC30周年に際して>

私が在籍した、9703(最後の2年はアドバイザーでした)は、いろいろなものが変化していきました。だっちゃが手書き→ワープロ主体に、家の電話→ケータイ&メールに、合気道と共有していた物置が新サークル棟の215へ、東京ミニ周遊券が無くなりそれと共に移動手段も車主体になりました。地図も手書きからパソコンソフトOCADによる作成へ、パンチも電子システムを組み込んだEカードになりました。我々が長い間部室としていた、学習室も潰されるようです。

 

東北大OLCは、、、

私が入学した97年には、既に東北大OLCは全国有数の強豪校となっていました。それを表すかのように、私が入学する以前は男子団体戦において1位、2位が繰り返し連続していました。そして、新勧のときにも東北大で全国的な活躍ができる部といえば、ボート部、オリエンテーリング部、○○部(すいません、忘れました)と、他部員にも言わしめるほどでした。さらにいうと、応援団の方々からも、「なんでオリエンテーリングは七帝が無いんだ。あれば、絶対勝てるのに」などと、ありがたい言葉も頂き、すっかりその地位は不動のものでした。現に、部員もさほど努力することなく、毎年コンスタントに20名超入っていました。

 

そして、悪かった事

しかし、東北大OLC97年を最後に優勝から遠ざかっています。我が部の良き伝統といいましょうか、新勧で売り文句としてきた、自由さというものが、何をやってもいいというような風潮になり、人数的にも70名以上在籍する巨大クラブとなって、かなりフットワークが悪くなりました。実際、男子団体戦においては、97年の優勝以降は、2位→5位→4位→4位→6位→2位という具合です。原因としてはあまりに巨大な集団となり、昔のやり方で通してきた歪みがでてきてしまったのです。しかし、今までは上手くそれで流れていて結果もでていたので、今さらそれを見直すという決断を、残念ながら当時の私にはどうしても下せませんでした。その象徴が、部として自分達で選手を育てるという事がいつの間にか苦手になっていたと思います。私がいた前後の代は、ほとんどJWOC出身者が団体戦を走っていました。たしかに、JWOCに行った人達は短期間ではありますが海外遠征や直前合宿等で様々な経験をし成長していますが、それ以外の大多数の人間に対する技術的なケアが薄れてしまっていたと思います。そんな中毎年お決まりのように、団体戦優勝を目標に掲げる事に、私自身疑問と同時に強い抵抗を感じた時もありました。はっきり言って、私の目にはやりたい事をやりたいようにやるような集団としか感じられず、個々がバラバラで動いているようにしか見えなかった為です。私もその頃は若かったので、それをどうすればいいのかという風に目を向けるのには、都合2年くらいかかりました。毎度のように学習室に行くと、後輩連中が地図読みしているその姿を見ているとこのまま何もせずにいるよりかは、その熱意に少しでも力になれればと思い立つようになりました。というわけで、走る以外の地図読み関係の合トレを行ったり、様々な企画を自分なりに考えました。このような事をやっていると、本当に痛感するのは個人の非力さです。やはり参加してくれる人はもちろんの事、運営をサポートしてくれる人がいないと成り立たなかったので、声のかけやすい同期の皆様には非常に大きな苦労をかけることになったかと思います。と同時に、その場で話を聞いてくれた後輩たちにもありがとうと言いたいです。

 

良かった事

 色んな所というか、マニアックな場所に出かける機会が多くなり、おかげで日本の地理にだいぶ強くなりました。ドコらへんにあのコンビニがあってといったような。部自体の人数が多かったので、日本全国の色んな人と知り合う事が出来ました。また、馬鹿な事もたくさんしました。マクドナルドでハンバーガー100個とか、バイキング(スタミナ太郎、サラダバー)、佐々久での食の戦いといった、食べ物系が多かったかと思います。この競技を続けていた事により、2度ほど北欧に行きました。彼らのスポーツに対する考え方や夏の過ごし方というのは、とても刺激的でした。それと、うちの代(97年入学)は、男子がすこぶる貧弱でしたが、女子が史上最多人数いた代でしたし、彼女たちはとても強かったです、あらゆる面で。そんな代でしたが、運営となると頼めば引き受けてくれる人達でした。もしかしたら、電話がかかってきた時点で、あきらめていたのかもしれませんが、、、。そして、東北大OLCを最高に誇りに思うのは、行儀の良さだと思います。最近のオリエン界では、とかく学生のマナーの悪さを批判している方がいらっしゃるみたいですが、うちの大学はその点では優秀だと思います。大人数ですが、この辺りをわきまえた集団であることは今後も続けていって欲しいです。

 

最後に、

私も6年間東北大OLCと関わり、いろいろな所に顔を出す事となりました。そんな中で記憶に残る言葉を1つ上げたいと思います。これは、確かコーチングか何かの合宿で村越真さんが、おっしゃっていた言葉です。特に、現役生には覚えて欲しいです。

 

「オリエンテーリングをずっと続ける人もいるだろう。しかし、多くは何かしらの理由でいつかは辞めてしまうだろう。しかし、辞める時にその人がオリエンテーリングを好きなまま辞めていって欲しい。」

 

東北大OLCはこれからも、続いていくと思いますが、このような言葉を参考にして、様々な山積している問題を解決してよりよい部となり、来るべき50周年や100周年に向かって、直進していってくれればと期待しています。

 


大坪和香子(旧姓池田)(1997年入学)

 

<東北大OLCが私にくれたもの>
学生オリエンテーリング界の現役から退いて約3年経った今でも、「学生時代は何やっていたの?(今も学生ですが)」と人から聞かれたときに、相手がひいてしまうほどオリエンテーリングのことを熱く語ってしまう私は、今でも、そして今後も一生オリエンティアなんだなーと思います。東北大OLCの部員として過ごした4年間は、楽しくて、夢中で、時々苦しくて、そして本当に充実した日々でした。(その当時の)東北大学OLCは「華やかさ」には欠けるけれど「穏やかさ」「居心地良さ」があって、私はそこが大好きで東北大OLCの部員であることがいつも誇りでした。
私が今「あー楽しかったなー」とよく思い出すシーンはなぜかインカレ等のイベントではなく、些細なオリエンテーリング部の日常です。仏舎利コースの途中から見た夜景、妙に真剣に走った北雄杯駅伝タイムトライアル、合宿の最後の撤収リレー、遠征帰りの東北本線の中でのおしゃべり、合宿の宿で炊飯器の前に行列を作るOLC部員を見ながら食べる夕食、当時は「普通」だったことですが、とっても幸せな時間だったと思うのです。この東北大OLC時代の沢山の思い出が今でもよく私を励まして、支えてくれます。
そして東北大OLCに4年間いたおかげで私は、きつい坂道も速く登れる、寒さに耐える、6時間電車に乗っても飽きない、どんな宿でも文句を言わず泊まれる、どんな場所でも着替えられる、などの忍耐力(?)を獲得しました。まさにこれらは、現在私が留学しているドイツ(坂の多い街)での生活において必要とされる能力であり、今とても役に立っています。創立されてから30年間、東北大OLCはずっとこんな感じで、素敵な思い出と少しの忍耐力をもった部員たちを世間に送り出して来たのではないでしょうか。

最後にこの場をお借りして、私にこのような快適で刺激的で贅沢なオリエンテーリング環境を与えてくれた東北大OLCの先輩方、後輩方、同期の皆様に厚く御礼を申し上げます。


下村淳子(1997年入学)

 

<緑色の日々>

私の自慢は卒業時に同期の女子が5人在籍していたことです。4年生にしか女子がいない状況で、何を間違ったか7人も入部し、何を誤ったか5人もの人間が4年間走り続けました。色んな意味で。地図調をして、大会運営をして、仕事して、そして一番高いところを目指し続けました。常にそれだけを考えた、まさにフルコースの4年間でした。インカレを頂点とする競技に関して言えば、あまりの苦しさにこの代であったことを悔やんだこともなくはないけれど、この代でよかったと思うことは年々増えるばかりです。

そして、トンペイでよかったと思うことも卒業後増えるばかりです。

いい思い出ばかりではないけれど、むしろいい思い出なんてないけれど、やっぱりインカレが気になってしまうのは、私たちのインカレを応援し、支え、また黙って舞台を準備していてくれた先輩、同期、そして今頑張っている後輩を思うから。何よりあの頃の自分を思い出すから。男女問わず大事な同期、厳しくも優しい先輩に知らず支えられていた苦しくも楽しい日々を思うから。なんだと思います。

壊れた洗濯機、18切符、下道遠征、クリスマス徹夜の運営、すべて楽しい思い出です。

卒業して4年たつ今だから言えることですけどね。

 

そんな時間を過ごせたことを感謝しています。東北バンザイ!

 


柏倉佳介(1997年入学)

 

<MGのこと>

私は今OB4年目なのでMGとのつきあいは8年目に突入しているわけですが、私が入部して以来MGはずいぶん変わりました。

 今回は、その過程を私の同期以降の思い出(というほどのものではありませんが)とともに簡単に語っていきたいと思います。

 97年入学組では旧姓坂本淳子が途中からバイクで練習会に現れるようになりました。彼女は時々早坂荘住人であった石井さんに教わったりしていたようです。同期は10人くらいいたのですが、彼女らはOLをするというと東北大大会に参加するくらいだったような気がします。

 98年組はほとんど憶えておりません(すみません)。だってOL関係と言うとコンパくらいにしか来なかったんですもん。

 99年組は、OLには多少参加していたような、あまり来なかったような...。私がこのあたりから愛車MOVEに乗ってましたので、いくらかは山に連れて行ったと思うのですけれど。

 さて(唐突ですが)、ここでMGに関して重要な事に触れておきましょう。それは「99年組までは短大・4年制が混ざっていた」ということです。このため、早い人では1年の終わり頃から就職活動でOLに顔を見せなくなりました。そんなわけで、2000年はMGにとって大きな転換期だったと言えると思います。

 その00年組にはMG初?のJWOCer櫻井優子ほか、双子の高橋舞・睦姉妹などが入部しました。当時双子のちゃらっとした髪を眺めて、「こいつらすぐ辞めるだろうなー」とか思ったものですが、どっこいしっかり生き残っていますね。

 01年組は残念ながら02年組の新勧花見コンパ終了後、そろって辞めてしまいました。そして私は愛車MOVEと別れてLibertyに乗り替えました。

 02年組には、JWOCer千葉光絵・阿久津麻美・荒井奈穂美(3年時)などがいます。JWOCには00年組の櫻井が2回出場したので、4年連続出場していることになります。

 03年組は3人いて今も元気に活動中とだけ記しておきましょう。あ、今一人オーリンゲンに行ってます(執筆現在)。

 04年組は只今4人いますが一人だけ紹介しておきましょう。金野愛子です。彼女はなんと!10045複歩で走ってしまうランナーです。っていうか私と同じです(笑)。今後に期待です。

 

追記・補足

MGは02・03年度選手権リレーで入賞を果たしました。今春は黄金世代とも言えるであろう00年組が卒業し、現在は3年の02年組が部を引っ張っています。今度部のHPを作りたいと言っていました。東北大がいなくても、一人(?)台原で練習会とかしてるんですよ。

私の1コ上の96年組はそれなりに練習会に参加していたようです。

 


 

 

 

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