70−80年代

 


廣沢孝(1979年部長) 

 

 私が、大学に入ったのが1977ですので、かれこれ、27年前にもなります。

その頃、大学では、三里塚(と、いってもこれでぴんと来る人はもういないと思いますが)闘争の激しいときで、学内でも過激派と云われている人が活躍しておりました。

 当時、OLは関東を除けは、まだまだ東北では一般的でなく、スポーツというよりは学校の森林学校等の時に行うものというイメージでした。

 

 このような中、東北大学では、同好会組織として、細々と活動をしておりました。当時の活動としては、奥松島や、県民の森でのパーマネントコースでの練習会や、宮城県の大会(OLは学校行事として取り入れられていたことで、県の協会で大会を主催していたかと思います)等に参加しておりました。

 

 当時の大会は、地図は1色刷りが当たり前で、等高線の修正や、植生等、今では当たり前となっていることも地図には盛り込まれておりませんでした。OLの形式はポイントOLの他、スコアOLが対等に扱われていました。

 ポイントOLの場合、スタート後、地図上のスタート地点に置かれている、マスターマップのポスト(コントロール)設置位置と説明を各自、赤鉛筆で写し取る形式が一般的で、ポスト通過の確認も、ポストに下げられたクレヨンを地図の該当エリアにチェックすると云うもので、今のような、コントロールカードやパンチ等は遠い世界の話でした。

 

 ポスト位置説明も、IOF規格ではなく、日本語の説明で写し取るのも結構大変でした。

 

 こんな中で、学習室の使用だけは、つい最近まで変わらず続いていて、懐かしくおもわれました。学習室の使用は、部の発足時から続いていたようで、毎日のように使うようになったのは、自分の時代からかと思います。

 予約方法は、1週間まとめて予約をとったかと思いますが、どこかのクラブと、いつも先陣争いをしていたような記憶があります。

 

 部の活動が盛んになってきたのは、関東でいろいろ大会が多くなり、OL人気が高まってきた頃で、2年後半から3年生になった頃かと思います。同好会は当時教養部(教養部も今はもう存在しないようですが)の組織だったので、3年生は引退ということになっていましたが、学友会に加入しようという機運が高まり、全学的な組織としたため、3年になってもそのまま部の活動はしておりました。

 但し、部長は2年生がやる決まりだったかと思います。

 

 この頃から、関東地方の大会に多く参加するようになり、植生の入った、多色刷りの地図や、コース印刷済みの地図に触れることが多くなりました。

 

 東北でも、福島県でFTVが始まり、隣の岩手、山形でも大会が増え、部員を各地に派遣して、情報交換をしていました。

 部誌の「だっちゃでけさい」もこの頃創刊となったはずです。

 

 東北大学は、各地から学生がきていることから、出身地の大会に参加するということで結構遠方にも行っていたかと思います。

 

 他の大学との交流もこの頃始まり、岩手大学、北海道大学、山形大学などと交流が始まりました。

 特に、岩大、北大とは、同じ東北線沿線なので、親交が強かったと思います。

(遠征は、今と違い、東北線に夜行急行「八甲田」があり、周遊券でのれたので、この「八甲田」が愛用の列車でした、北大は、青函連絡船で延々と参加していたような)

 

 さて、大会はさておいて、日常の活動で、メインとなるのが、コンパですが、当時は西公園での花見新歓、奥松島のコースでの歓迎練習会、FTVでの新人デビュー、夏の合宿、東日本大会、秋の各地の大会、締めの全日本大会というのが一般的でした。

 各大会も、今のようにエリートクラスはなく21Aが最高峰でした。

 

 コンパもいろいろ伝説談が有りましたが、部員が増えたのが、3年生、4年生の頃なので、この話は、次の世代に譲ります。

 

 東北大としての、大会運営は、大学祭での学内OLは除いて、対外的には、1978年の「青葉山」大会が初回(プレ大会)と思います。

 次年度は、「将監」(今は、団地と化したところ)でした、この時から毎年大会が

続いていますね。

 

 あのころ、よちよち歩きだったクラブも、いまでは体育会の中心的存在となっているし、国際大会にも参加する部員が出ているなど、夢のようです。

 これからの、部の発展を祈っております。

 


三浦哲生(1981年度 部長、 1983年卒 法)


<4分の1世紀前の昔話>

たまに送っていただく東北大OLCの会報を見るとインカレに優勝したとか、優勝を惜しくも逃したとか、毎年すばらしい成績をおさめている様子、まさに隔世の感があります。小生が東北大に入学し、なんとなく面白そうというだけでOLCに入った昭和54年(ということは1979年、ということは25年前! ということは現役諸君はこの世に生まれていない...)は毎日学習室を根城としていた同好会で、トレーニングといっても青葉山の駅伝コースを走るくらいで、たまに「青葉山」の地図を持って山の中を走る程度、あとは学習室でだべって、後は国分町または誰かの部屋に酒を飲みに行くという毎日でした。

 

それでも、前の年にはじめての自作の地図「青葉山」で大会を主催し、今後毎年地図を作成して大会を開催しようというOLCらしくなりつつあった、そんな時代だったと思います。また、宮城学院の学生にクラブに入ってもらい、汚い学習室が少し明るくなったのも昭和54年からだったと思います。

そんな雰囲気のなかで、軟弱そうな名前とは似合わない過酷なスポーツであるオリエンテーリングに徐々にのめりこみ、これはスポーツとして認知してもらわなければならない、と思い込み、たまたま同郷の当時の体育会事務局長に体育会加盟を申請、種々資料を作成、片平にあった事務局に説明に行ったことを覚えています。結局小生の現役時代は体育会加盟は認められませんでした。

インカレもまだ始まったばかりで、リレー形式ではなく各校4-5名が選手権クラスに出てタイムの合計で競っていました。そのため、選手層の厚い早稲田や東大などからは、学連総会の席で、過去の大会の実績で選手権クラスへの出場選手を選別すべきという意見が出て、東北大や北大が声を荒げて絶対反対、という時代でした。

 

とは言うものの、関東圏の大学との実力の差は明らかで、我々はインカレでは全体での成績より、北大に勝った負けたで大騒ぎしていました。

 

大会主催もクラブの大事なイベントで、我々は「将監」や「まきば」の作成に参加した世代ですが、夏の暑い盛りに1ヶ月近く毎日ゲレンデに通って、しらみつぶしに上り下りして調査をする担当者と、その調査結果を1枚の地図にまとめてゆく地図製作者の根気と情熱はどこから出ていたのだろうと、今思うと不思議なほどでした。「まきば」での大会では関東からtop runnerが参加してくれましたが、2時間近くかかってぼろぼろになって帰ってきたのを見て、そういえば21Aのコースは誰も通して試走していなかったと気づいた思い出があります。

 

オリエンテーリングというマイナーな競技のクラブも30年も続けば立派な伝統といえ、この伝統の上に現在の隆盛があるのだとしたら、我々大昔のメンバーがかつて全国のゲレンデで流した汗と白頭山で飲んだ酒は無駄ではなかった、と考えることに致しましょう。

東北大OLCがますます発展されんことを。

(白頭山、知らないだろうなぁ。)

 


松島寿(1982年部長)

 

先日14年ぶりに仙台を訪れた。仙台南インターから八木山を通り青葉城址へ向かった。政宗公の前から観た街並みから、ずいぶん高層ビルも増え変わっているなと思った。工学部、理学部を通り川内方面へ移動し、懐かしい光景に出会った。学習室があった。すべての窓には板が打ち付けてあったが外見は当時のままだ。楽しかった日々の記憶も少し蘇った。牛越橋近くの広瀬川の河原でのトレーニング、交通公園のところから青葉山に入ったランニング、深夜マラソンの激走、夏休みを棒に振った地図調査と製図など、すべて入学後すぐに連れて行かれた学習室から始まっている。良き先輩後輩もここで生まれた。向山の桜井邸では中島みゆきや長渕を聞きながら徹マンをし、眩しい朝日を何度もみた。初めてのロットリング使いの製図もここでやった。今はどういう方法で地図を作っているのか。まさかこんなに原始的ではあるまい。そう言えばポストのチェック方法もIT技術で進歩している、と大学生活が好きで今なおOL現役の同期早野さんから聞いた。クレヨンチェックもあった時代とはえらい違いだ。東大の村越さん、早大の山岸さんもまだ現役だろうか。二人とも山の中で遭遇した時のスピードは異常だった。OLが遊びから競技へと急速に変化を遂げたのも彼らの力に負うところが大きい。東大の山チャンはやまこさんとまだ地図屋をやっているのだろうか。当時は、OLCではなくOLKとしたり、こだわりもある成長の時代だった様に思う。関東学連は地理的、経済的にも恵まれ、組織としての活動が活発化していた。東北・北海道勢も負けてはならぬと背伸びをしたこともよく覚えている。北大との坊主を賭けたインカレもこの頃だ。松田さん、村井さんなどたくさんの方とも親交を深めることができた。私が卒業してから、後輩の皆さんの努力で体育会にも昇格し、夢のインカレ優勝も果たしたと聞く。皆共通なのは、同じこの学習室のスタート地点だと思う。

世界中で活躍する先輩後輩他大学の皆さんのことを思うと、年齢では折り返し地点にきた重いからだに鞭打ち新しいポストを捉えたいという気になってきた。ツボっても面白い。

川内から広瀬通方面へ抜け、約20年ぶりに七夕を観た。多くの人出で賑わっていた。過去最高という。その後家族で栗駒山にのぼり松島を経由して帰途に着いたが、疲労の中にも心地よさが残った数日間だった。家に帰り思い出した。当時使った地図は今も思い出とともに押入にあると。

 


後藤一郎(1983年部長(主将))

 

 私が大学一年の時に入部した頃、東北大学OLCはただのサークルでした。部室はなく、教養部にある?学習室という古い木造の建物の中の一室を、毎日使用許可申請を出して使っていました。放課後になると三々五々部員が集まり、各自適当にトレーニング(主にランニング)していました。その頃のOLCは非常に自由な雰囲気で、練習も大会遠征も各自の自主性にまかされていました。トレーニングはせず、大会にも出ず、しかしコンパには必ずいるという部員も多かった様に思います。

 

年間の主要な行事としてはOL大会の開催、インカレへの参加がありました。大会の開催については、マップの作成から大会運営と多くの時間と労力を要しましたが、一番頭が痛かったのは予算の問題でした。大会へ参加してくれたのは100人前後であり、地図の印刷に多額の費用がかかったため、かなりの赤字経営でした。サークルだったため大学から予算をもらえることもなく、部員から徴収する部費でまかなっていました。

 

この様な状況の中、部室が欲しい、予算が欲しいということから学友会へという話が持ち上がってきました。学友会に加盟するには申請後最低一年間、学友会直轄部として活動が審査され可否が決定される訳ですが、私が部長を引き受けた年に学友会の直轄部となりました。それに伴い、学友会に合わせ、部長体制から主将−主務体制にし、部長が主将に、副部長の小原が主務となりました。また、部員のつてをたよって、教養部数学科の岩田先生に顧問をお願いしました。ちょうど同時期にアメリカンフットボール部が直轄部となりました。アメフト部は既に大会でもかなりの成績をあげており、一年後すんなり学友会に加盟しましたが、我がOLCは、OLという競技の知名度が低い、特に目立った戦績がない、部活動に対するシビアさが不足しているなどの理由から、加盟が見送られてしましました。サークルの自由な雰囲気がいいという部員も多く、部内のコンセンサスが充分にとれていなかった様に思います。

 

 北海道・東北学生OL連盟(北東学連)は昭和58年(1983)4月に北海道大学、岩手大学、東北大学、藤女子大学、宮城学院女子大学の5校で発足しました。北海道、東北地方はOLの発展途上地域で、大学の数も少なく孤立化しがちであったので、交流を深め、お互い刺激しあって全体のレベルアップをはかっていこうということになりました。初代の理事校は北海道大学、理事長は吉野君にお願いしました。活動内容としては、機関誌の発行(名前がきまらず、ななしのごんべえで、初年度は5号まで発行)、インカレ、全日本合宿が主なものでした。地理的な条件から一同が会する機会は少なかった訳ですが、北東学連としての連帯感は強かった様に思います。

 

 東北大学OLCは学友会OL部となり、近年はインカレ優勝をはじめ立派な成績をあげ活躍されていることをOBの一人として誇りと思うとともに、非常に嬉しく思っています。学友会OL部のますますの活躍をお祈りしております。


松尾裕信(1981年入学)

 

(奥武士発見秘話)                          

 特に秘話はありませんが、奥武士のゲレンデを見つけた日のことを振り返りたいと思います。

 今から22年前、11月某日(水曜日)。その週の日曜日に第5回東北大大会を終え、その日は朝から授業をすべてさぼり、来年のゲレンデを探す旅に出ることに決めていた。

 その年の大会(化石の森:青葉山のこと)もすでに焼き直しの地図となっており、そろそろ近場の山に閉塞感を持ち始めていた。その当時ネームバリューのない東北大大会では、仙台市街地からあまり遠くに行っては人が呼べないこともあり、それまでの大会も全て東北自動車道沿いに集まっていた。

 しかし、さすがにもうゲレンデになるような手ごろな山も無く、手を広げて探さなくてはと感じていた。

 5万分の1の地図で仙台近郊(高速の外側)を見ると、南は等高線がきつい所ばかり。北から西にかけてところどころ間隔の広いところがある。先ずは北から下りて行くことにして前日は床についた。

 その日の朝は快晴だった。愛車のヤマハMR−50(原チャリです)にまたがり、一路、泉が岳を目指した。こうして、その後幾多のエリートを生み出した練習会の地、奥武士を発見した日が始まったのである。

 根の白石近郊は、等高線は広いがはだかの丘陵が多く、ゲレンデにはならない事が分かった。

 少しずつ南へ下がりながら、右手に山が見えれば少し入り込み、植生を確認していったが、残念ながらとても走れるような植生は無かった。

 その当時、思い描いていたゲレンデがあった。

 その年の夏、北海道で2日間大会があった。マップ名は思い出せないが(クラーク博士の像がマップ内に書いてあった)、まったくの植生Aに、人の背丈の2倍程度の尾根沢がいくつも重なり、さすが北海道と言えるすばらしいゲレンデだった。そんな細かい地形で仙台でも大会が開けないかと考えていた。

 午後になり、やはり簡単には見つからないなと感じ始めていた。残る候補は前日見ていた中で、ちょっと遠くはなるが芋沢から更に奥まった地域だけだった。南は広瀬川で区切られ、ちょっと西に行くと急に険しくなるが、その地域だけぽっかり等高線が無くなっている部分があった。

 どこから山に入ろうか、おそらくこの時たまたま偶然一番いいところから入ったのだろう。手前一帯は植生が悪かった。大和教の神社を過ぎ、ずっと奥までゲレンデ北側の川沿いの道を入っていった。集落を過ぎても更に川沿いを上っていった。

 そろそろいいかな、と夕焼けの中一歩やぶを乗り越えて入った瞬間、それまでとは別世界にいる感覚に陥った。

 足元はふわふわの落ち葉、視界は遠くまで広がり尾根沢がいくつもつながっている。

 えっ、ほんと? と思いつつ沢を一つ二つ超えても状況は変わらなかった。そして興奮は次第に大きくなった。

 ゲレンデ全体のほんの一部しか見ていなかったが、これはいけるのではと感じていた。

 その日、学習室に戻るなり「来年のゲレンデ見つけた」と嬉々として触れ回った。

 大会の終わった週に次年のゲレンデ候補を見つけたのだから、異例の早さである。

 自宅に戻り、バイクの走行距離を見ると170kmを超えていた。

 こうして奥武士は、私一人で、たった一日で見つけたのです。

 その後、週末の度に山に入り、期待は確信に変わっていった。

 どこまで行っても繰り返される尾根沢は、誰もがオリエンテーリングをするうえで絶好の場所だと感じさせた。

 

 奥武士は私の自信作です。あのゲレンデに私の足跡が残っていない場所はありません。

 地図を書くのは当時辛い仕事でした(今は簡単らしい)。夏休みはありませんでした。ただ書いているときは後世に名が残ればと思って頑張っていましたが、まさか奥武士がそれほどまでに練習会に使われ、役に立つとは思っていませんでした。

 当時、東北大の実力はまだまだでした。いつか見てろよ関東学連の思いの中で、後輩がここまで頑張ってくれたことに対して感無量です。その実力アップに、奥武士のゲレンデが少しでも役に立っていてくれたら、発見者&マッパーとしてこの上もない喜びと言えます。

 


高見沢健吾(1985年主将)

 

85年はいろいろな意味で過渡期であった。

正式に学友会に昇格したとはいえ、真摯に競技に取り組む体質には転換しきれず、“競技追究派”と“エンジョイ派”が混在する独特な雰囲気が部内にはあった。

【同期の特徴】

 同期は安斉裕氏、西川要氏、深谷均氏と私のわずか4名(85年当時)で、 不作の年だった。直近の上下世代とも10人近くいたからその差は歴然。

 全員、特に足が速い訳ではなく、どちらかと言うと老獪なオリエンスタイルで、「ハマったときは速」かった。

【当時の主な思い出】

1)東北大大会(太白)

 度重なる候補地の変更で調査期間が短く、しかも調査期間中に熊出没の噂もあって、マップの半分近くが調査されていない状態だったにも関わらず、無理やり大会開催。

(ありもしない道が堂々と載っていたりする)

 そんな中、太白山頂付近を調査してくれた86年主将の渡部哲緒氏には本当に感謝。

彼がいなければコースは組めなかった。

 地図は発注2年目の佐々木平版にて作成。色使いはおもちゃのようだった前年に比べ格段に良くなったが、紙厚指定を失敗してしまい、ペラペラで破れやすかった。

地図作成ノウハウも発展途上であった。

2)駒ヶ根インカレ

 団体戦前夜、初日のHFAで好成績の上島通浩氏、吉田佳一郎氏にリレーメンバーを急遽変更。今では考えられないと思うが、主将の独断でいきなりメンバー変更できる自由さが、まだあった。当時はまだ「インカレ=北大との対抗戦」の認識レベルだったからこその荒業だった。主将は相変わらず、髪の毛を賭けていた。

また、宿舎が同じだった名古屋大が団体戦で初めて関東以外の大学として優勝、それまでのインカレの流れを変える大会となった。

 今考えると、あの時の彼らの運気が東北大に流れ込みつつあったのかもしれない。

 


渡部哲緒(1986年主将)

 

 86年度は学友会オリエンテーリング部に昇格して2年目にあたり、まだ新たな部のあり方を模索しはじめた頃だった。新たに部費として学友会からの予算*1が下り、部室*2も仮ながら持つことができたし、この年は12名もの新人部員*3を迎えることができ、活動を活性化させる基盤は整っていた。特に初の女性部員誕生に部内はまた違った盛り上がりをみせていた。

 しかし、一方で学友会としてもっと厳しく競技性を追求していくことと、それまでの同好会的雰囲気を残していくこととの間で、新たな部づくりを進めていかなければならなかった。(主将としてはこれが大きな悩みだった。)競技性を追求するといっても、近くでの大会開催や大学交流は少なく、東北は地理的に大きなハンデがあると言われていた。

 実際、練習は自分達でセッティングする練習会と、普段のランニングが主なメニューであったし、大会遠征*4も経済的負担になりがちであった。そんなことから、何人かは参加率が低く、退部勧告云々について議論を呼んだ時期もあった。結局私の主将を務めたこの年は個人の自主性にまかせる形で1年が過ぎてしまった。

 それでも積極的に大会に参加*5し、どんどん実力をつける人は増えていったし普段も技術局が中心となって互いに刺激しあう形でランニングトレーニングを進めていってくれた。そのためか、この年の愛知インカレでは個人で1桁台に入るものが6名もいたし、HEリレー7位、HAリレー8位と強豪関東勢の後姿を捉えるところまでになった。

 今、振り返ると主将としては事務的すぎたのかもしれない。もっと求心力を持つことの方がこの頃は必要だったのかもしれないとの反省も残るが、私にとってやはりこの時期は大学生活の中でも大きな思い出の一部である。これからの後輩たちに素晴らしい伝統を育て、今後も長く活躍してくれることを心から願っている。

*1 確か当時7万円程度もらったような記憶があるが、すべて地図代として消えてしまった。

*2 ぼろぼろの学習室が何故か居心地が良いとみえて、部室は結局物置と化していた。

*3 当時は何故が隔年毎に人数が増減していた。

   (4年5人/3年13人/2年8人/1年12人)

*4 急行八甲田や津軽といった夜行でいくハードな遠征も少なくなかった。通路に新聞紙を敷いてごろ寝しているおじさん達が妙に印象的だった。  

*5 この頃から車の所有率と関東出身者の増加によって車での大会参加が多くなっていった。

 


田中泰義(1984年入学)

 

<僕を支えた同期生>

同期には荒川、壱岐、石井、岩倉、小林、浜野、深沢、二ッ谷、船尾、山田、(渡辺)明、(渡部)哲緒がいた。僕は運動音痴で足も遅かった。インカレのエリートクラス出場を夢みたが、かなわなかった。それでも4年のとき、一般クラス(今もこう呼ぶだろうか)の一つで2位になった。普段の成績から考えると奇跡だったし、このクラスは他より優勝タイムが悪く幸運だった。OBを含めた一体感と活気に後押しされていた。各自がよく備え、好成績が続出した。岩倉の活躍で、エリート団体戦を初制覇したのもこの年だ。

仲間はいい。練習以外の時間も共にした。

山田はバイオリンをかじり、僕をクラシック音楽にいざなった。大好きなカール・ベーム指揮、ウィーンフィルの田園交響曲は、横浜にあった彼の実家で聞いたのがきっかけだ。フルマラソンも一緒に完走した。

同じ理学部物理系だった小林。授業に不満を持ち、地元の新潟大医学部に移った。僕は、留年すら世間体が悪いと思われる岐阜市の田舎で育った。大胆な行動がうらやましかった。

主将の哲緒と主務の深沢はともに実力者で、おまけに女子学生にもてた。船尾は屈託なく楽しそう。マイペースで動じない荒川。壱岐や明はコンパの場を盛り上げた。石井は福祉活動にも参加し生き生きしていた。

2年から入部した岩倉は陸上部出身で、すぐに頭角を現した。同じく2年から入った浜野と二ツ谷は最初こそ成績はひどかったが、1年の遅れをひたむきな姿勢で補い、クラブ運営を大きく支えた。

僕は地球物理学の修士を修了し、新聞記者になった。科学や環境を専門とし、04年4月から札幌に異動し行政を担当している。クラブ活動から得たものは多い。例えば、準備の大切さ。取材前に、相手の出身地、大学を調べておけば話が弾む。就職後、休職し米アラスカ大に1年留学したが、仲間が海外遠征で試合に挑んだことが刺激だった。

みんな、元気か。悲しいが、すでに他界した同期がいる。お互いに忙しいが、また、飲みたい。

 

 


上島通浩(1987年主将)

 

ンカレ初優勝前夜の時代

 

 私の6年間はOLがすべてだった。学生生活のすべてはOL部を中心に回り、化石の森(青葉山のテレインを当時はそう呼んだ。今は何というマップ名になっているだろうか)の木々一本一本、石ひとつひとつ、小径の段差、山の風の香り、音、そういったものは記憶に焼き付いているのに、仙台の街の記憶は、コンパの集合地点だったフォーラス前と国分町の一部しか残ってない。貯金も含めてインカレの準備のためにスキーには一回も行かず、荒浜での海水浴の経験もない。今にして思えばもっと仙台の街、東北地方を知っておいても良かったと感じるが、それでも学生生活には何の悔いもない。素晴らしい仲間に恵まれ、自分のすべてをひとつのことに注ぎ込んだ思い出は、忙しい日常の中で記憶の底に沈もうとしている現在でも光と懐かしさにあふれている。

 

 私がOL部にはいったのは、諸先輩が努力の末、学友会体育部としての基盤をようやく確立してまもなくの時期だった。当時のOL先進地であった関東から見ると、東北大OLCは「一度団体入賞したことがあるが、まだこれからのクラブ」であった。インカレ個人戦唯一の入賞者であった伝説の人松島さんは当時M2で、クラブに顔を出すことはほとんどなかったし、4年生は実質的にOB扱いで活動の主体は3年生以下であった。一部の先輩たちは、関東に追いつけということを機会あるごとに強調し、大会にも率先して参加していたが、一方で、同好会的雰囲気も色濃く残っている、そういう時代だった。

 時が流れ自らが主将となることが決まったとき、任期中に東北大OLCが日本の大学クラブの代表的クラブになるための基盤づくりをしようと考えた。クラブが体育会に昇格していたことは、人数の少ないクラブを強くするために不可欠の財産であることを十分に認識していた。そして仲間と相談しながら、先輩学年の実績の上に次の活動を行った。(1)練習日を決めてのトレーニングの強制、特に、春の北雄杯駅伝後にひきつづく走り混み(2)パンチ台、スタートチャイマーの購入(それまでクラブにはなかった)(3)部則改正(監督…テクニカルアドバイザー制度の導入試行、総務局の新設など)(4)宮城学院の活動支援(部誌への寄稿、ポストフラッグ購入のアドバイス、MG練習会のサポートなど)

 一方、クラブ員と共にめざしながらも成し遂げられなかった点もある。クラブ員からの学友会常任委員や県協会理事の選出、また、卒業後には地域クラブである仙台OLCに入り、宮城県、東北地方のOLの興隆をめざすこと、それから、これは学連の問題であるが、学連合宿のコーチとして日本のトップオリエンティアを招聘することであった。しかし、それらの精神は受け継がれ、後輩達によっていずれも成し遂げられたばかりか、ついにはショートインカレの開催という、私のビジョンにすらなかったことが実現された。歴史は積み上げられ進化し続けるということを感じずにはいられない。

 

 以下に、「だっちゃでけさい」911,2月合併号に記した「これからのクラブを背負う君へ」という拙文を少し長くなるが引用しよう。

 

(前略)ここ数年で、北東学連のレベルは上がった。以前は、インカレ個人戦の学連枠がひとつもなかったのに、今では、関東、関西に次ぐ枠をもっている。中でも東北大は、ここ3年でインカレで2回優勝をとげ、また毎年のように新人が上位に食いこんでいる。(中略)私たちは、OLに取り組む条件に恵まれなくても勝てることを示したが、それはOL界で「走る」という部分が重視されだしたのと軌を一にしている。これは偶然の一致だろうか。決してそうではない。

 東北大OLCは、「強い」とされる大学クラブの中で最も人数の少ないクラブである。東大・早稲田・千葉・筑波は、どこも100人もの部員をかかえる。(中略)それに対し、東北大は30人ほどにすぎない。この意味をよく考えてほしい。

 私たちが強くなったのは、諸先輩方の努力のうえにたって、(中略)全国の水準を常ににらみつつクラブの力を引っ張りあげたからだ。(中略)クラブ内の強烈な競り合いに加え、関東を……それも早大OCと東大OLKを強く意識して、それをクラブ内のさまざまな面に反映させたことが大きい。(中略)私達のオリエンテーリングの水準が上がるにつれ、日本のトップオリエンティア達から声がかかるようになり、彼らが何を考えているかを知るようになった。ひいては、オリエンテーリングというスポーツそのものの将来も考えるようになったのである。その過程のひとつが群馬インカレの優勝であり、一昨年の東日本大会(宮城県)であった。東日本大会の開催は、ちょうどJOLCの法人化問題と軌を一にしていた。私は、新組織における日本学連の占める位置を高めるのに、大会開催が絶好の機会ととらえ、(中略)県協会の役員に、東北の他県からも日本学連の後押しをしてくれるよう、運動してもらうために話してまわった。また、競技面では大会のH21E,D21Eが世界選手権への国内予備セレクション・レースに指定されたので、スピードが十分上がるコースにするよう留意したのである。

 しっかり記しておかねばならないのは、日本のOL界の動向を見つめつつ(群馬で私達クラブ全員の力で走り勝ったということは、まさに日本のOL界を先取りしていたのだ)それをクラブの力にしようとしたのは私ひとりではなく、(中略)当時の部員の多くが、一部の部員を通して入ってきた情報、刺激を、自分の問題として自分なりに理解して自分達の活力としていたことである。私はその一部分にすぎなかった。(後略)

 

 そう、私はとても良い時期に主将を務めさせてもらった。しかし、ほろ苦い思い出も同時に残っていることを書かなければフェアではあるまい。

 私は後輩のめんどうをよくみなかったという点では良い先輩ではなかった。自分が学部に上がって学業との両立が厳しくなり(実際、この年度の試験はあと1科目落とせばインカレ後進級できないところだった)、平日には学習室にほとんど行かない身でありながら部員に練習を強制したのである。そして、トレーニングのために学習室にほとんど来ることのない部員に対しては、厳しい態度をとった。私自身、最もよく走っているうちのひとりであるという自負があったが、その年の私は、特に後輩達からは自分勝手な、暖かみのない主将に見えたはずである。実際に、1年生の部員は櫛の歯が抜けるように退部してしまった。また、クラブが飛躍したのをよいことに、私は白分勝手な行動がふえていた。恥ずかしさと傷つけてしまった人への申し訳なさを今でも感じる。

 そんな私をクラブのみんなは支えてくれた。先輩、後輩を含め本当によい仲間達に恵まれ、とても幸せだった。

 


松尾繁樹(1988年度 主将1986年入学)

 

私たちの代は「初もの」に巡り合うことが多かったと思うんですよね。一年生の夏には,初めての北東学連合宿とセレクションレースが行われました。IC87(群馬)での男子団体戦初優勝。

1988年度には学友会体育部の黒川杯もいただきましたが,これももちろん初めて。宮城県では初めてのビッグ大会だった東日本大会は私たちが3年生の時。そしてIC89(埼玉)でも男子団体戦で優勝しました。関東地区以外の大学で複数回の優勝を果たしたのは東北大が初めてです。ええと後は何だ,東北大初の女子部員が私たちの代ですね。

もちろん,こういうのは,時代の流れな訳ですが,東北大OLCが日本の学生オリエンテーリング界の中で,また東北大学の中で,その地位を確立していくところに居合わせることができたのは,とても幸運なことだったと思います。

 


小林重信(1986年入学)

 

<東北大OLCと卒業後の思い出>

東北大OLC30周年おめでとうございます。

私が東北大OLCに入部してOLを始めたのは1986年の6月。もう18年前になります。学生時代、選手としてはこれといった成績は残せませんでしたが、あの頃の事は今も懐かしく思い出します。

亀岡八幡の階段や金属博物館までの道がきつかったこと、初めての練習会で、雨の中現在地が分からなくなってうろうろしたこと、夏休み入ってすぐの集中練習会で蒸し暑い中走ったこと、強風の中東北大大会の運営をやったこと、2年生のインカレで初めて団体優勝したこと、東日本大会の運営をしたこと、黒川杯受賞時の選考に主務として立ち会えたこと、そして4年のインカレで再び団体優勝したこと、あと、合宿、大会参加等で他大学も含め多くの人と知り合えたこと…。こうしてみると他の人の活躍に便乗している気もありますが、それでも強烈に印象に残っております。

卒業後もいろいろとありました。一時期OLから離れていたことと復活したこと、いろいろと大会運営を経験できたこと、全日本リレーのMEに群馬県代表として参加できたこと、最後のFTV大会でM21ASで優勝したこと、ときわ走林会発足に参加できたこと、そして茨城で県協会理事になったこと…。振り返ってみれば数々の出来事がありましたが、すべては学習室と青葉山から始まったと思うと感慨もひとしおです。

先日の筑東北MG戦、仙台OLCとの対抗戦に参加して、仲間や後輩たちの頑張りに感激しました。今後の東北大OLCのご活躍を祈念しつつこの報告を終わりにしたいと思います。

 

 


土方 隆(1989年主将 1987年入学)

 

《悔しかったあの日》
 東北大OLCに入部し、初めて迎えた群馬インカレで先輩方が団体戦で初優勝し、はじめて白河の関を優勝旗が越えた翌年、勝者として傲ることなくインカレに向け、どこの大学よりもインカレに向けて良く準備してきた。部内の雰囲気は最高だった。決して負ける気はしなかった。
 当時、東北大は豊富な走力トレーニングで部員の走力レベルは駅伝をすれば間違いなく日本一にあった。しかし、インカレの神様は我々に笑顔をくれなかった。

 優勝した早稲田大学が表彰式で言っていた「我々は地図も見てますから。」

 悔しかった。確かに走力はあるかもしれない。でもそれだけでは勝てないのだ。「群馬はメンバーや地形、コースが東北大向きで優勝したのではない、全体的なレベルアップをし、層の厚い部にしたい」


 この奈良での屈辱的なインカレが挑戦の始まりだった。

 一つ目は他大学との交流を深めることであった。
 当時、関東などの有力オリエンティアに面識のある部員は少なかった。他大学との交流が少ない東北地方の一大学であるという地理的なハンデの中、他大学の選手を知らないというのは不安材料の一つになる。
「井の中の蛙であってはならない」そう考えていた私は筑波大学との対抗戦を始め、他大学との交流に努めていった。
 また、大会に多くの後輩を連れて行くため、東京の自宅を安価な宿代わりに使い、自家用車による遠征を強行していた。当時、関東地域で大会が開催されることが多く、我が家は大会に向かう学生を宿泊させる遠征宿となり、私が大会に参加しなくとも、自宅に後輩を泊めていた。
 我が家の周辺は土地区画整理で大きく様変わりしましたが、学習室同様、我が家は当時のまま。五右衛門風呂はありませんが、柱時計はまだ健在です。

 二つ目が練習方法の改善が必要であった。
 東北地方は総じて、地形がダイナミックで、植生の善し悪しがはっきりしたテレインが多い。そのため、コンパスワークや歩測はあまり重視されず、地形や植生などの視覚情報を主に利用するオリエンテーリングが主流であった。学習室で地図読みやルートチョイスに関する練習は数多くしていたが、当時の練習会は技術的な練習は少なく、「練習会=部内での力比べ」であり、練習会後の上級生によるフォロー、撤収を兼ねたランオブなど、少しずつではあるものの、上級生による技術指導を強く始めた頃だった。
 院生になって秋合宿の開催、レースアナリシスの作成による自己チェックなど、後年になって実現したものも数多くあった。

 こうして一年間の総決算である埼玉インカレでは雪辱をはらすことができた。当時の1年生にはわからなかったかもしれないが、奈良インカレあっての埼玉インカレなのである。

 しかし、主将としてどうだったのだろうか。猛省せねばならぬこと多しに違いない。決して頼りになる主将ではなかっただろう。こんな私を支えてくれたのは、私の大切な同期である。
 頼りない主将を補佐する主務として支えてくれたのが菅原善宏である。彼は教養部時代に私と同じ組であったこともあり、部活に引っ張り込んでしまった。彼と私は生年月日と血液型が一緒なのに性格はまったく違っていた。血液型占いや生年月日による性格判断は正しくないことの証明だった。
 田中俊一は1年の少し後から部に入ってきた。彼は努力家で1年の頃は、3時間越えのレースもしばしばやっていたが、最終学年では団体戦のメンバーに選ばれるほどの成績を残すほどになった。彼は地区学連の事業部、渉外を担当してもらった。北東地区学連の夏合宿は彼が仕切ってくれた。ホントに頼りになる人で、後輩の信望も厚かった。
 最後は中村杯の創設者中村禎宏である。彼は2年になってから入部したため、最初の奈良インカレHFAで優勝した経歴を持っている。(HFAのもう一つのクラスの優勝者は菊池正昭)座禅堂山の大会実行委員長を務め、こよなくあの山を愛した男である。お世辞にも植生や地形が練習会向けでなかったあの山を「必ず使って欲しい」という願いのもと、中村杯は2月の厳冬期に彼によって開かれ、優勝者が次年度運営を行うスタイルを確立させた。

 これが同期すべてである。私を入れて4人と少なかったが、同胞はとても頼りになった。

 30周年記念誌を発行するにあたり、多大なる尽力をされた渡辺研也氏をはじめ、編集に携わった方々に感謝するとともに、これからの東北大OLCの活動の更なる活躍を祈念いたします。

 


田中俊一(1987年入学)

 

<モルツ効果>

 酒屋でサントリ−の「モルツ」を見ると思い出すのが「モルツ効果」だ。果たして現在でもこの言葉は使われているのであろうか?

 当時、エリ−トランナ−として全国的にも知られていた上島さん、吉田圭一郎さん、松尾さん、萩原さんと言った先輩達や同期の土方、菊池や小山を代表とする後輩達に囲まれる中、私はごく普通のオリエンティアであった。入部当時は練習会や大会でいつも大きくつぼり、4時間以上もゲレンデでさまよって先輩達を心配させたこともしばしば。「自分にはOLは向いていないな−」と思いつつも走ることと仲間とだべることが楽しくて学習室に足を運んでいた。そんな時、ある大会の前にある先輩の「モルツを飲むと成績がいいんだよな−」と言う言葉を聞き、自分もその言葉を信じて「モルツ」を飲んで大会にでた。すると不思議なことに自分としては納得に行くレ−スができた。それ以来大事な大会前には「モルツ」を口にするようになった。

 4年生の夏合宿に富士宮で行われた北東学連のセレクションでは「モルツ」を飲み、恐ろしいくらいに会心のレ−ス運びでインカレエリ−トクラス個人戦の切符を手にした。さらに、早稲田大大会でも予想以上の好成績を手にし、団体戦のメンバ−にも選ばれてしまった。こうなると何はともあれ「モルツ」である。

 そして岐阜で行われたインカレではもちろん「モルツ」を飲んだ。個人戦は雪が津々と降りしきる中で行われ、あまりの寒さで地図とコンパスを持つ手が凍え、仕舞いには感覚が麻痺するくらいだった。関東の有力選手の中には翌日の団体戦をにらんで途中で棄権するオリエンティアもいたが、優勝した名古屋大のオリエンティアが引っ張るスーパーパックにのって予想以上の結果を納めることができた。そしてその夜ももちろん「モルツ」を飲んだ。私以外に「モルツ」効果を信じて疑わない同期の中村や後輩達と飲んだ。団体戦は前日の天気が嘘のような快晴の中で行われた。難易度が非常に高いコ−ス設定の中、序盤から東北大は出遅れてしまったが3走の自分にたすきがつながれたときには十分に上位入賞が狙える位置にいた。レ−スの前半は自分でも恐ろしいくらい好調でパックを引っ張っていた。しかし、ちょうどパックがばらけた中盤、すぐ横のポストを見落としてパニックに陥ってしまい、結局最後まで立て直すことが出来ず時間オ−バ−。時間内に4走にたすきをつなぐことができなかった自分自身の実力不足が悔しくて悔しくて、応援してくれた仲間に申し訳けなくて涙が止まらなかった。

 実力あっての「モルツ」なのだが、10年以上たった今でも何か縁起を担ぎたいときや大舞台に望むときには思わず「モルツ」を口にしている。そして「モルツ」を口にすると学生時代の仲間の顔が浮かぶ。志し同じく「モルツ効果」を信じていた仲間達は今でも「モルツ」飲んでいるであろうか。会いたいなー。

 

 

 

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